平清盛に学ぶ処世術|出世の裏にある大胆さと気配り

今回は日本で初めて武士の政権を作り上げた、平清盛(たいらのきよもり)を取り上げます。

名前は聞いたことあるんだけど…

平清盛は江戸時代まで600年も続く「武士の時代」を作り上げたすごい人なんだ!

かつては貴族たちの警護役(ボディガードのような役割)だった武士たち。
清盛は武士という立場から権力の階段を駆け上がり、最終的には太政大臣(だようだいじん:今でいう総理大臣)の立場にまで上り詰めるほどの、絶大な権力を手にしました。

今回はそんな平清盛から学べる処世術を紹介していきます。

平清盛のプロフィール

名前:平清盛(たいらのきよもり)

生年月日: 1118年2月10日

生まれ: 京都府京都市(諸説あり)

仕事:平家の武将・太政大臣

家紋:揚羽蝶紋(あげはちょうもん)

揚羽蝶紋

まずは清盛の生涯をサクッとみてみよう。

武力で出世の階段を上り始める

2012年『平清盛』より

1156年、鳥羽(とば)法皇の二人の息子、崇徳(すとく)上皇と、後白河(ごしらかわ)天皇の兄弟の間で、後継の座をめぐる戦いが起きます。

崇徳上皇
vs
後白河天皇

これが1156年「保元(ほうげん)の乱」です。

この時、後白河(ごしらかわ)天皇側に戦うことを命じられた武士組織が平家(へいけ)平清盛(たいらのきよもり)でした。

清盛率いる平家は、敵の崇徳(すとく)上皇の館を焼き払うことで、後白河天皇を勝利させたため、褒美として太宰府(だざいふ)の次官に任ぜられます。

太宰府とは、九州を拠点に海外との貿易を担当する地方行政機関のことだよ。

貴族の警護をする武士という立場だった清盛は、こうして朝廷のために戦で勝利を収めることで、権力の階段を着々と上り始めることになります。

この「保元(ほうげん)の乱」で勝利した後白河天皇はその後、天皇よりも位の高い、上皇(じょうこう)となり、権力を欲しいままにしました。
しかし、朝廷内で一部の貴族だけをえこひいきしたため、後白河上皇を良く思わない勢力が現れ、再び戦が起こってしまいます。

え?また戦?

後白河上皇は、前回同様に清盛率いる平氏軍に味方になるように命じ、一方の敵勢力は源義朝(みなもとのよしとも)率いる源氏軍を味方につけたため、この戦いは2大武士組織の平氏vs源氏の戦となりました。

平清盛の平氏軍
vs
源義知の源氏軍

これが1159年「平治(へいじ)の乱」です。

源義朝はあの源頼朝・義経のお父さんだよ

ライバル勢力 源氏との戦い

源義朝と平清盛 2012年『平清盛』より

「平治(へいじ)の乱」は平家の敵対勢力である源氏(げんじ)たちの奇襲攻撃から始まりました。

源氏のトップ、源義朝(みなもとのよしとも)が二条天皇と後白河上皇を誘拐し、御所に監禁したことで、戦況は圧倒的に源氏優位でスタートします。

そんな源氏に対し、清盛はあっさり「降伏状」を出してしまいます。

へ?!降参したの?

あの清盛があっさり降参するはずがないさ

清盛は「降参します」という手紙を出して敵を油断させたうえで、誘拐されていた二条天皇に十二単(じゅうにひとえ:女性の着物)を着せて女装をさせ、御所から天皇と上皇を連れ出すことに成功します。

その後、正面切っての平氏と源氏の武士の覇権をかけた争いが繰り広げられた末、戦は平氏の勝利に終わります。

負けた源義朝(よしとも)は清盛によって処刑され、首は京でさらされた上、源氏軍の武士たちもまた容赦なく処刑されました。

清盛は、源義朝の長男 源頼朝(みなもとのよりとも)とその弟 源義経(みなもとのよしつね)も同じように処刑しようとしましたが、清盛の母が「無力な子どもを殺すことはやめてくれ」と頼んだため、仕方なく命だけは助けることにします。
源頼朝は伊豆へ島流しに、義経は奈良のお寺へと預けられ、兄弟は離れ離れにされてしまいます。

これが後に自分の首を絞めることになろうとは、
思ってもみなかっただろうね。

あ!そっか!
この後成長した頼朝が平氏を倒して鎌倉幕府が始まるのか!

源氏を倒してますます出世

「平治(へいじ)の乱」で勝利をおさめた清盛は、後白河上皇によって武士で初の位「正三位(しょうさんみ)」に任命されます。

当時の太政官(内閣)階級ランキング:
1位:正一位/太政大臣
2位:正二位/左大臣・右大臣
3位:正三位/大納言・中納言 ← 清盛今ココ

この出世で、清盛は天皇のそばで国の政治に発言権をもつまでに力をつけます。

おお…清盛駆け上がるねぇ

海の脅威 海賊をも手なずける

H2O, シースケープ, ズーム背景

清盛の父の代から、平氏は外国からの輸入船を襲って高価な品を奪う「海賊」をやっつけるという仕事を命じられて瀬戸内海を中心に力をつけていました。

しかし清盛は武力で海賊たちを押さえつけるのではなく、瀬戸内海のことを知り尽くした海賊たちを仲間に取り込み道案内をさせたり、外国からの攻撃に対して戦えるような水軍として配下に収めてうまく利用することに長けていました。

意外と現実的な人なんだね

気配りで頂点へ上り詰める

清盛の権力が増しつつあった頃、都では後白河(ごしらかわ)上皇とその息子の二条天皇の親子の間でまたまた権力をめぐる対立が起こっていました。

え?こんどは親子でバトル?
忙しい人たちやでほんと

これまでは天皇中心の政治体制だったんだけど、この頃は天皇+上皇の2大体制で政治が行われていたんだ。
このことが権力争いの原因になってしまっていたんだね。

自分のことを見出して引き上げてくれた後白河上皇と、自分のことを後見役として頼ってくれる二条天皇。
清盛はこの対立する二大勢力のどちらにも好かれるように、ふたりの間でうまく立ち回ります。

よくよく慎みて、いみじく計らいて、アナタコナタしける
(気配りを重ねあちらともこちらとも上手くやっていた)

愚管抄(鎌倉時代初期1220年頃の歴史書)

この清盛の立ち振る舞いは、周りからは相当したたかに映ったため、冷ややかに言われたほどでした。

その後、二条天皇が病で急死すると、清盛はあっさりと後白河上皇に取り入り、次期天皇に自分の義理の甥を選んでもらうことで、ますます出世していきます。

そしてついには太政大臣(だじょうだいじん:今でいう総理大臣のような位)にまでのし上がります。

当時の太政官(内閣)階級ランキング:
1位:正一位/太政大臣 ← 清盛今ココ
2位:正二位/左大臣・右大臣
3位:正三位/大納言・中納言 

国の政治を担う太政官は内閣のようなもので、そこの太政大臣っていうのは今でいう内閣総理大臣みたいなものだよ。

えええー!総理大臣になっちゃったの?!
清盛上り詰めたねえ!

中国との貿易ビジネスで大儲け

平清盛像(広島)

清盛は病に倒れたことをきっかけに、突如として出家の道を選び都(京都)を離れます。

病気の療養のためと清盛が向かった先は、福原(ふくはら:神戸)でした。
福原には港がありましたが、港が浅いため海外からの大型船は直接港に入ってこられなかったため、当時海外との貿易は九州の太宰府(だざいふ)を経由して行われていました。

清盛は、自分の領地である福原の港を大胆に改修し、太宰府を経由せずとも中国からの大型船が直接港に入ってこられるようにしました。

海外からの船が直接入ってこられるようにすることで、経済の中心地だった宋(そう:中国)と福原との貿易を活性化しようとしたんだ。

山を切り崩した土砂で、神戸の港を30ヘクタール(東京ドーム7個分)も埋め立てたこの一大事業は、6年もの歳月をかけた大規模なものでした。

また、九州太宰府から福原までの海道を船が往来しやすくするために、700もの島々がひしめく瀬戸内海の島を切り開き航路を作りました。

広島県にある「音戸(おんど)大橋」は清盛が島を切り開いてできた海道です。

飛ぶ鳥を落とす清盛の勢い

後白河法皇と平清盛 2012年『平清盛』より

その後も清盛は、上皇から法皇となった後白河法皇との関係性を強めることで、自分の子どもたちもどんどんと出世させていきます。

息子である平重盛(たいらのしげもり)と平宗盛(たいらのむねもり)をかつて自分がそうであったように正三位(しょうさんみ)の地位に付け、娘である徳子は天皇の妻として嫁がせます。

清盛はこうして平氏一族の栄華が代々続くように道筋を作り、その力を圧倒的なものにしました。

もう怖いもの無しって感じだね…

でも権力を持ちすぎるものはいずれ誰かに倒される。
それが世の常なんだよね…

アンチ清盛勢力の陰謀

後白河法皇 2012年『平清盛』より

権力をほしいままにしていた成り上がりの清盛に対し、よく思わない「アンチ清盛」な貴族たちがいました。

彼らはひそかに京都の鹿ケ谷(ししがたに)に集まり、清盛を倒そうと計画を練ります。(鹿ヶ谷の陰謀)

そこにはなんと後白河法皇の姿がありました。

え?後白河?清盛のズッ友だったんじゃないの?

後白河法皇もまた清盛の大きすぎる権力を恐れていたんだ

後白河法皇は、平氏のライバル組織である源氏と密かに通じて、平氏を滅ぼすように計画を立てていたといわれています。

しかし、何者かの密告によってこの陰謀は清盛の耳に入ってしまい、打倒平氏の陰謀に関わった者は皆、清盛によって処刑されてしまいます。

唯一、何のおとがめも受けなかった後白河法皇は、大切な側近たちを失い孤立してしまいます。

史上初の武家政権を打ち立てる

鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀以来、自分を倒そうと企てていた後白河法皇と清盛との関係は悪化する一方でした。

長い間、法皇に気を遣い続けてきた清盛も、開き直った法皇からの度重なるいやがらせを受けて我慢の限界を迎えていました。

わー気まずいことになってきた

そして1179年、清盛はついに後白河法皇の家に大軍を向かわせ、とうとう法皇の幽閉を決行してしまいます。

武力で国の権力のトップ(法皇)を幽閉し、政治の実権を奪い取った清盛。

この瞬間、朝廷に仕える警護隊でしかなかった武士が、朝廷から権力を奪い取り、国のトップとなる「革命」が起こったのです。

この革命をきっかけに、武士たちが実権を握る世の中は、江戸時代滅亡までの600年もの間続くことになるんだ。

そっか、信長も秀吉も家康もみーんな「武士」だもんね!
そう考えると清盛ってすごいな。

平氏は日本の領土の半分を独占し、また中国との貿易で巨額の富を得ていました。
その贅沢で何不自由ない暮らしを楽しみながら、平家一門の中にはこう表現するものもいました。

平家にあらずんば、人にあらず。
(平家でなければ、もはや人ではない。)

平時忠

打倒平家!」源氏が挙兵

源頼朝 2012年『平清盛』より

平家の権力が不動のものとなった頃、東日本で武士たちが「打倒平家」を掲げて次々と挙兵しました。

その中心には、かつて清盛が情けをかけて「命だけは」と助けてやった、あの源頼朝(みなもとのよりとも)の姿がありました。

おお!ここで二人がつながるのか!

お父さんのカタキを討つためにずっとこの機会を狙っていたんだね

源頼朝とその弟義経(よしつね)率いる東国の軍勢が各地で平氏を打ち負かし、とうとうその勢いは清盛のいる都へと向かいつつありました。

1181年、源氏との激しい闘いのさなかに、清盛は病に倒れてしまいます。

病床で清盛が語った最期の言葉は、打倒源氏に対する強い思いでした。

頼朝が首をはね 我が墓前に懸くべし
(源頼朝の首をはねて、私の墓の前に置いてくれ)

「平家物語」巻六「入道死去」

源氏に大敗 滅亡する平家

シースケープ, スカイスケープ, ダーク

大黒柱だった清盛を失った平家は、勢いを増す源氏に押されて、西へ西へと追いやられます。

そして清盛の死から4年後の1185年、追い詰められた平家と源氏の最後の決戦の地は、壇ノ浦(だんのうら:山口県下関市)が舞台となりました。

これが壇ノ浦の戦か!

しかし、平家が頼りにしていたはずの海賊たちは、ここぞという場面で平家を裏切り源氏になびいてしまい、また潮の流れが源氏に味方したことが理由で、壇ノ浦の戦いで平家は大敗してしまいます。

こうして平家の時代は終わって、源氏の時代に切り替わるんだけど、やっぱり武士の時代を築いた清盛ってすごい存在なんだ。

平清盛から学ぶ処世術

武士の地位をこれまでにないほど高く引き上げることに成功した平清盛。

それまで弱い立場にあった武士のブランドを向上させ、江戸時代まで続く武士の時代の基礎を作り上げた清盛から学ぶことはたくさんあります。

アナタコナタの気遣い

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清盛は、朝廷という特殊な組織の中で、天皇と上皇という勢力の間を非常にうまく立ち回っていたことが記録に残っています。

仏教好きの後白河法皇のために、私財を使って「三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)」の造営をしたともいわれています。

三十三間堂 LIVE JAPANより

権力は、戦やクーデターによっていつ誰の手にわたるかわからない時代。
どちらに転んでもいいように、どちらにも好かれておくことが身のためということを理解していたのが清盛でした。

アナタコナタ(あちらにもこちらにも)気を遣ってうまく立ち回るその振る舞いは、今にも十分通用する処世術と言えます。

使える!処世術
清盛のこういう姿勢は、権力者に媚びているようで周りから見ればカッコ悪く映るかもしれませんが、事実清盛はこういう気遣いができたことで、みるみるうちに出世を果たしていきます。
組織の中で派閥があるのであれば、どちらが残っても都合の良いように立ち振る舞うことを心がけてみるのがいいかもしれません。

決して前例に捕らわれない

清盛は日本史上初めて武士の政権を確立することに成功します。
武士は「貴族を警護する立場」というそれまでの常識をぶち壊し、政権奪還の革命を起こします。

清盛が中国との貿易に力を注いでいた頃、清盛は貿易を円滑に進めるために中国の商人と後白河法皇とを引き合わせて会合を開きます。
しかし当時の日本は、894年の遣唐使(けんとうし)廃止以来、国を代表する立場の人が外国人に会うことはご法度(タブー)だったため、それを知った貴族は清盛の行動を「天魔の仕業」と表現しました。

清盛はそれを知りつつ、前例に捕らわれず既成事実を作ってしまうような大胆な男でした。

使える!処世術
歴史は清盛のような前例に捕らわれない大胆な革命の積み重ねによって今とつながっています。
仕事においての革命とは大げさかもしれませんが、過去にとらわれず実利のために前例をいったん度外視して考えられる大胆さは欲しいものです。

超現実主義者

エレクトロニクス, コンテンポラリー, チームワーク

清盛が6年もの時をかけて大改修をてがけた福原の工事中、海がひどく荒れる状況が続いたことにより、時間をかけて埋め立てたものが流され水の泡となることが続いてしまいます。

地元の人たちは仕方なく「人柱(ひとばしら:いけにえを用意して神様の怒りをしずめること)」をたてようと、人を海辺の柱に縛り付けようとします。

噴火や豪雨などの天災が続くと、神をしずめるために人柱を立てることは、当時としてはよくある話でしたが、一説によればそれを見た清盛は止めに入り、代わりに神にささげるお経を岩に掘らせ、その岩を海に沈めることでその場を収めたといわれています。

使える!処世術
前例に捕らわれず常識を疑うということにも重なりますが、清盛の行動は(神をも利用しようとした)後の信長にも似ている気がします。
人々が盲目的に信じているものを疑い、常に現実的で冷静に世の中を見ていたからこそ、自分の野望のために着々と階段を上ることができたのかもしれません。

大河ドラマで平清盛をもっと知ろう

2012年放送 大河ドラマ『平清盛』より

2013年に放送されたNHK大河ドラマ「平清盛」は、武家政権を立ち上げた清盛の生涯を豪華キャスト陣の名演と共にドラマチックに描かれています。

「平清盛」はNHKから販売されているDVD-BOX(1と2の2つで完結)で見ることができます。

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平家物語を現代語訳で読もう

”祇園精舎の鐘の音、商業無情の断りを表すー”という一節から始まる「平家物語」は、平家の栄華と没落を物語にしてまとめた古典の名作として今でも愛され続ける物語です。

いつかは読みたいけど、難しそう…そんな方は中学生でもわかりやすい現代語訳の平家物語がお勧めです。

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平家物語を漫画で読もう

古典初心者の方にはまず漫画で読んで流れをつかむことをお勧めします。

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偉人から学べることはまだまだたくさんあります。

ぜひ他の記事も参考にして明日から役立ててみてくださいね。

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asuka(30代)

twitter : @麒麟を待つおんな

週末はNHKの歴史特番を見て過ごしています。

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