伊達政宗に学ぶ処世術|劣等感を原動力に変えた伊達男

今回は伊達政宗(だてまさむね)を取り上げます。

名前は聞いたことあるけど…よく知らない

伊達政宗は「伊達男(だておとこ)」の由来になるほど派手でおしゃれな武将として有名なんだ。

片目を失明したことから「独眼竜」という異名をもつ伊達政宗(だてまさむね)。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)徳川家康(とくがわいえやす)と時の権力者の下で不遇の扱いを受けながらも、東北イチの大名として活躍しました。

今回はそんな伊達政宗から学べる処世術を紹介していきます。

大河ドラマ「独眼竜政宗」 出典:https://www.nhk-ondemand.jp/

大河ドラマ「独眼竜政宗」の視聴率は39.8%で、大河ドラマ歴代最高記録をたたき出したんだ。

え!紅白歌合戦より高いじゃん。政宗人気やば。

伊達政宗のプロフィール

名前:伊達政宗(だてまさむね)

生年月日: 1567年9月5日

生まれ: 出羽国(でわのくに:山形)

仕事:出羽国(でわのくに)と陸奥国(むつのくに:福島・宮城・岩手・青森)の大名

家紋:仙台笹(せんだいざさ)

仙台笹(せんだいざさ)

コンプレックスとたたかう幼少期

伊達政宗(だてまさむね)は東北の福島県を納める大名伊達家に生まれます。

生まれてすぐ天然痘という感染病にかかってしまったことが要因で高熱をだし、右目の視力を失ってしまいます。

小さいころから大きなハンディキャップを負った政宗のことを、母親は嫌煙し、弟の方ばかりを可愛がりました。

この悔しい経験で幼い政宗は、いつか天下を取って世の中を見返してやるという大きな野望を抱くようになります。

え…政宗可哀そう…

お母さんから愛情を受けられなかったのは織田信長と似てる境遇だね。

東北統一関東進出の野望

1584年(信長が暗殺された本能寺の変の2年後)に18歳になると、政宗は伊達家の当主として家を継ぐことになります。

伊達家は今の福島県を領土にもつ小さな大名でしたが、政宗は隣国への侵攻で次々と領土を開拓し、東北での権力を徐々に大きくしていきました。

そして政宗はいずれは東北、そして関東へと力を伸ばしていくことを考えていました。

しかし信長亡き後、日本で権力を手にしようとしていたのはあの豊臣秀吉(とよとみひでよし)

日本の西側半分を制圧した秀吉は、朝廷から関白(かんぱく:将軍より上の地位)に任命され、事実上の天下統一を果たそうとしていました。

そんな秀吉は各地の諸大名たちの力がこれ以上広がることを避けるために、大名同士が勝手に争うことを禁止する条例を出しますが、政宗はこれを無視して会津(あいず:福島県西部)に侵略し攻め落とします。

これにより政宗は114万石(まんごく)の領土を納める東北最大の大名となります。

10万石でだいたい社員が3,000人規模の会社と考えて、100万石以上は、30,000人規模の大企業なんだ。

おお!政宗出世したねー!

秀吉の命令を2度もスルー

当時権力者豊臣秀吉に対抗する大名は関東を納める北条家と、東北を納める伊達家のみ。

秀吉は天下統一を目指し北条家侵略のため全国の大名に兵を出すよう命令して、徳川家康(とくがわいえやす)など諸大名が加わり、関東に向けて兵をあげます。

政宗の元にも秀吉から「協力するように」という手紙が届きますが、政宗は今回も無視をしてしまいます。

でた政宗の既読スルー!

しかし、秀吉が集めた兵の力が20万と知ると、政宗は「北条の次は伊達家がやられてしまう…」と思い直し、気持ちを改め出兵しますが、時すでに遅し。。

既読スルーしたあげく大遅刻した政宗は、秀吉の怒りをかってしまい「秀吉は政宗を殺そうとしている」という噂がたつほどでした。

切腹覚悟で許しを請う

なんとか秀吉に許してもらおうと、政宗は秀吉の元に出向きます。

腹を立てる秀吉の前に現れ政宗は、なんと武士が切腹する時に着る白装束(しろしょうぞく)に短刀をもって秀吉の前に現れました。

切腹を覚悟するほど反省しているということをアピールした政宗の心意気に秀吉は大笑いし、「もう少し来るのが遅ければこの首はなかったぞ」と言ったといわれています。

おぉ…3万人の大企業の社長がここまでする…!
間一髪だったね…!

その後秀吉は大軍をもって北条家の拠点である小田原城を攻略して、事実上の天下統一を果たします。

領土が半分にカットされる

秀吉は小田原城陥落をうけて、秀吉は協力してくれた各地の大名に領土を分配します。

そこで政宗は114万石からなんと58万石へと領土を半分にカットされてしまいます。

つまりお給料が半分になってしまったんだ。

しかも、政宗に新しく与えられた土地は今の宮城県。

当時の宮城県は、荒れに荒れていた土地だったため、これは事実上の左遷でした。

それでも政宗は文句も言わず、新しいリーダーである秀吉に尽くしました。

そんな誠実さが認められ、政宗は秀吉からの信頼を少しずつ得ることになります。

1592年には、当時日本の中心だった京都に居城を与えられ、94年には徳川家康や前田利家(まえだとしいえ)など親しい重臣だけの花見に政宗も招かれるほどでした。

秀吉が病死する1年前には、秀吉の取り計らいにより従四位(じゅしい)下という名誉ある位を与えられました。

最終的に秀吉にめちゃ気に入られてんじゃん

秀吉の次は家康に仕える

秀吉の死後、天下の行く末は豊臣家を守ろうとする石田三成(いしだみつなり)と徳川家康のどちらかに握られようとしていました。

徳川家康が上杉謙信(うえすぎけんしん)の息子、上杉景勝(うえすぎかげかつ)を倒すために越後(えちご:新潟県)で戦っているすきに、石田三成が大阪で挙兵したことを知り、家康は上杉討伐を諦め、越後から引き返すことを決めます。

その際、敵対する上杉軍に背を向けて無防備になってしまうと考えた家康は、上杉軍の足を引き留めてほしいと政宗に頼みます。

家康はかつて秀吉が政宗から没収した土地をチラつかせ「助けてくれる代わりに7か所の領土を与える」と約束してくれたため、政宗は兵をあげて家康を助けることにします。

しかし、いつまでたっても家康は約束の領土を与えようとしません。

1601年(関ヶ原の戦いの翌年)政宗は家康に直接面会して約束の土地を要求しますが、家康はいろいろと理由をつけてその約束を果たそうとはしませんでした。

1603年江戸幕府を開いた家康が最終的に政宗に与えた領土は、今の宮城県仙台がある62万石でした。

え…!家康ひどい!

与えられた領土を経済大国に育てる

政宗が家康に与えられた仙台は、湿地が多く荒れ果てた地が広がっていました。

しかし政宗は、戦ではなく平和的な手段で国を豊かにする方法を考え、「千年も続く豊かな国にしてみせる」と仙台を経済的に発展させようと奮闘します。

まずは新田開発を奨励し、仙台を流れる北上川の水害を防ぐために何度も大規模な工事をして、みんなが安心して農業をできるような国に育てました。

政宗の経済政策が功を奏して、次第に仙台はたくさんのお米がとれるようになったため、仙台のお米は領土外へ輸出されるようになりました。

やがて江戸に出回るお米の3分の2が仙台のお米になるほどになり、62万石から100万石の領土となりました。

江戸時代、人工が爆発的に増えていた江戸の職を支えたのはこの仙台のお米だといわれています。

うう…!政宗すごい!

伊達政宗から学ぶ処世術

歴史上で有名な武将たちの中でも、度重なる領土替えが続き苦労が多かった伊達政宗。

そんな不遇な人生にもめげずに踏ん張り続けた彼から私たちが学べることはたくさんあります。

コンプレックスを野心に変える

政宗は幼い頃から片目を失明し、母親からは100%の愛情を受けませんでした。

人と違うコンプレックスを負うことで苦しんだ彼の経験が、「いつか見返してやる」という強烈な野心へとつながります。

人は周りと比較して、自分にどこかコンプレックスや劣等感があると卑屈になり、それを言い訳に逃げてしまいがちです。

政宗は、その劣等感を見事にバネにして大きなエネルギーに変えることで、大きな国の当主となることに成功しました。

こういった幼少期の「負の感情」は、ポジティブな感情よりも想像を超えるほどの原動力になることがあります。

使える!処世術
幼い頃の悔しい経験をもう一度思い出してみると未だにふつふつと感情が湧き上がってくるはず。
その頃のざわざわした気持ちは、自分にとって大きな原動力となる宝ものです。

つまらないプライドは捨てる

政宗はその破天荒なキャラクターイメージから、個性的な武将のひとりとして愛され続けています。

特に白装束を着て秀吉に謝罪にいったエピソードは、ドラマでも必ず再現されるほど政宗を語るうえで欠かせない有名なエピソードですが、これは単なる政宗の個性として軽く語れるものではありません。

当時の政宗は100万石以上の領土を抱え、たくさんの部下を抱える大企業の社長というポジションでした。

秀吉のことを好きであれ嫌いであれ、政宗はその領民と部下たちを守るという責任があったため、この謝罪は一世一代の修羅場だったのだと考えられます。

自分の意に反してでも、部下たちを守るために権力者に屈するリーダーの姿は決して情けないものではなかったはずです。

組織で働くわたしたち社会人も、自分のプライドや意に反する行動をとらざるを得ないことが度々起こります。

自分の置かれた立場でできること、守るべきもののために覚悟を決めた行動をとりたいものです。

使える!処世術
置かれた立場で守れるものがあるときは、それが例え意に反するものであっても、全力で対処したいですね。
プライドが邪魔をするときは、成り上がりの秀吉を前に、政宗が白装束を着て床に伏した姿を思い浮かべてみましょう。

権力者には律儀に尽くす

破天荒なキャラクターとして描かれがちな政宗ですが、彼の生涯をたどると時の権力者に律儀に尽くす世渡り上手な姿が浮き彫りになります。

一度は関東支配を夢見た若い政宗は、権力者と渡り合う上で自分の置かれた立場や、守るべきものを思い知ることになります。

外交や政治を通じて現実を理解した政宗は、その野望の矛先を武力でモノを言わせて勝ち越すスタイルから、次第に経済力で生き残るスタイルへと変えていきます。

秀吉や家康から受けた待遇は決して良いものではありませんでしたが、政宗は自分の組織が生き残るために権力者に律儀に尽くすことで、やがて豊かな大国に育て上げることができました。

使える!処世術
好き嫌いの感情は端において、まずは今の権力者に律儀に尽くすことを心がけてみましょう。
一時的に周りからはカッコ悪いといわれるかもしれませんが、それは自分が長く生き残り、ゆくゆく勝ち昇るための一番の近道であることも同時に理解しておきたいものです。

転んでもタダでは起きない

政宗は戦国武将の中でも貧乏くじを引きがちな不遇な人生を送っていますが、それでも愛されているのは、度重なる苦難にあっても、必ず立ち上がろうとするその不屈の根性があるから。

手塩にかけて開拓した土地を何度没収されても、新天地でイチからやり直すその根性と、どうせやるならこれまで以上にというその貪欲さは現代の私たちが最も見習いたい姿かもしれません。

使える!処世術
奪われたり、失ったりしたその経験はより良いものを手にするための宝物だと考えてみる。
何時間もかけて作ったデータが消えてしまったら(マジで凹みますが)次はより良いものを作れるという考え方で挑むみたいに。

伊達政宗をもっと知ろう

「奥州の独眼竜」として天下に名を知られた伊達政宗。子ども時代は病気で失った右目を気にする気弱な性格だった。しかし、あるひとつの決意が政宗を変え、ついには天下取りの夢を追うまでに成長する。その型破りな人生を描く!

辛い幼少期から、立派な武将になるまでの生涯をわかりやすく学べる1冊。角川出版から販売されている山本博文先生監修の信頼できる1冊です。

いかがでしたでしょうか?

偉人から学べることはまだまだたくさんあります。

ぜひ他の記事も参考にして明日から役立ててみてくださいね。

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プロフィール

asuka(30代)

twitter : asuka@麒麟を待つおんな

超ライトな歴史好き(歴史勉強中)

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