今回は長い戦国時代を終わらせて、250年も続く江戸時代を作った徳川家康(とくがわいえやす)を取り上げます。
あ、いえやすさん!
家康は信長・秀吉と比べると地味だけど、すごい人なんだ。
250年も続く江戸幕府の創始者、徳川家康(とくがわいえやす)。
家康の死後は日光東照宮(にこうとうしょうぐう)で神様として祀られているほど、後世にわたり影響力を及ぼした大物です。
今回はそんな徳川家康から学べる処世術を紹介していきます。
目次
徳川家康のプロフィール

名前:徳川家康(とくがわいえやす)
生年月日: 1543年1月31日
生まれ: 三河国(みかわのくに:愛知県 岡崎市)
仕事:江戸幕府初代将軍・政治家
家紋:葵紋(あおいもん)

戦国の乱世を終わらせたってことは…(麒麟ってこと?!)
(!)まずは家康の生涯をサクッとみてみよう。
悲運な幼少時代

徳川家康は、三河国(みかわのくに:愛知県岡崎市)を納める松平家の長男として生まれます。
家康の母の兄が、当時松平家と敵対する織田家と同名を結んでしまったことを理由に、家康が3歳の頃、両親は離婚。家康は小さいころから母と生き別れしてしまいます。
その後いろいろあって、幼い家康は駿河(するが:静岡県)を納める今川家と尾張(おわり:愛知県)を人質としていったりきたりさせられてすごします。
家康の生涯は、こうして12年間もの長すぎる人質生活からスタートします。
12年も…お母さん居ないし…可哀そう。
この長かった人質生活が後の家康に大きな影響を与えているんだ。
桶狭間の戦いで完敗・自殺を考える

今川家の人質として育ちながらも、家康は主君(上司)である今川義元(いまがわよしもと)に尽くします。
その働きぶりが認められ、今川義元の姪だった築山御前(つきやまごぜん)をお嫁にもらい、今川家の重臣候補にまで出世します。
領土拡大を狙う今川義元が織田信長(おだのぶなが)の納める尾張を攻めることに対し、信長が挙兵した戦い1560年「桶狭間(おけはざま)の戦い」で、家康は最前線で戦いました。
多勢に無勢、大軍を率いる今川軍にとって少数の織田軍は虫けら同然でしたが…結果は皆さんご存知、織田軍の奇襲作戦によって、家康の主君である今川義元は討たれてしまいます。
家康は殿が討たれたことに強い責任を感じ、岡崎城の大樹寺で自害(自殺)しようとしますが、お寺の住職さんに「泰平の世を築くべく生きよ」と諭されて考えを改め、生きることを選びます。
家康、死のうとしたんだ…!真面目。
織田信長と同盟を結ぶ

家康は桶狭間の戦いの後、家康は今川義元を失った今川家から独立して岡崎城を拠点に独自の勢力を拡大しようとします。
これに反抗する今川勢力と闘うため、家康は桶狭間の戦いで敵対していた織田信長との間に軍事同盟を結びます。この同盟は信長の居城であった清州(きよす)城で結ばれたことにより「清須同盟」と呼ばれています。
この同盟により、家康は信長の戦いには自ら兵を引き連れて援軍を送るようになります。
1570年、信長が浅井長政(あざいながまさ)・朝倉義景(あさくらよしかげ)と闘った姉川(あねがわ)の戦いでは、家康の援軍があったから信長が勝てたといわれています。
家康はこうやって信長から信頼し始められるんだね。
三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗

当時、力をつけ始めた織田信長を弱らせるために信長をぐるりと囲んで遣っ付けようという作戦「信長包囲網(のぶながほういもう」の中心的存在だった甲斐(かい:山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)は、室町幕府最後の将軍足利義昭(あしかがよしあき)の命で信長を討ちに兵をあげます。
1572年、まずは手前にいる徳川家康から討つ!といって家康の領土はあっという間に武田信玄に侵略され始めました。
相手は3万の兵に対し、こちらは1万。家康は、武田軍の圧倒的な強さを知りながらも、自らを奮い立たせるつもりで部下にこう言い渡しました。
戦は多勢無勢によるものではない。天道次第だ。
徳川家康
「天道次第」つまり神のみぞ知るといった感じでしょうか。
これはまずい気がする…!
「石橋は叩いても渡らない」といわれる超慎重派の家康とは思えないほどの決断と言えます。
結果、織田信長の援軍を足してしても、結果家康・織田軍は圧倒的な力を持つ武田軍にボロボロに完敗してしまいます。
家康はこの戦いで多くのものを失いました。
苦労して自分のものにした領土と城は次々と奪われ、大切にしていた優秀な家臣(部下)も討ち死にしてしまいました。
家康は後に、この大敗の悔しさと恐怖をを忘れまいと、自分への戒めとして恐怖でおののく表情をした自画像を描かせます↓

顔をしかめていることから「顰像」(しかみぞう)という名前でも知られているこの絵を、家康は生涯自分の部屋に飾って戒めたといわれています。
すごい…!失敗から学ぶ姿勢!
秀吉によって関東に左遷される

1582年、家康が恐れていた武田信玄が突然病死し、さらに本能人の変で明智光秀(あけちみつひで)によって織田信長が暗殺されてしまいます。
信長の仇討ちのため明智光秀を倒し、続く覇権争いで信長の筆頭家老(ひっとうかろう)だった柴田勝家(しばたかついえ)を破った豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、信長に代わり天下を欲しいままにします。
1590年、西日本を征服した秀吉は、天下統一を目指し北条家が納めていた関東にも勢力を拡大。家康は秀吉から難攻不落とされていた北条氏の小田原城を落とし関東を征服することを命じられ、これをやってのけました。

小田原攻めの1番の功労者である家康はどんな領地を与えられるか楽しみにしていましたが、秀吉から与えられた褒美は驚きのものでした。
秀吉は、無情にも家康が小さい頃から親しみ、家康が手塩にかけて大きくした東海領地を没収。かわりに先ほどまで敵地であった北条氏の東海への領地替えを命じたのです。
家康が納めていた領土:
- 信濃(しなの:長野県)
- 甲斐(かい:山梨県)
- 三河(みかわ:愛知県)
- 遠海(とおとうみ:静岡県)
- 駿河(するが:静岡県)
代わりに与えられた領土:
- 上野(こうずけ:群馬県)
- 下野(しもつけ:栃木県)
- 武蔵(むさし:埼玉県・東京都・神奈川県)
- 伊豆(いず:静岡県)
- 相模(さがみ:神奈川県)
- 下総(しもうさ:千葉県北部)
- 上総(かずさ:千葉県南部)
家康良かったね!関東の方がいいじゃん!
ところがそうじゃないんだ。
当時の関東は「ど」田舎だったんだよ。
当時の日本の中心は関東ではなく、京都・大阪。家康にとってこれはあまりにも理不尽な左遷でした。
力をつけ始めていた家康を恐れた秀吉は、都から遠くの寒村へ左遷することで力を弱らせようとしたといわれています。
しかし、家康はこれを受け入れ、部下たちを引き連れ江戸へ移ります。
ちゃんと従う家康…えらいぞ!
江戸を日本の中心にした

家康が秀吉から与えられた当時の関東は、縄文時代は海の底だったこともあり、見渡す限り広大な湿地帯。とても街作りや農耕ができる地盤ではありませんでした。
家康はすぐに、地盤改善のための利根川の治水工事を進め、家康の死後もこの工事は継続され、60年後に完成します。
現在私たちが見ている関東の河川の9割は、江戸時代に整備されたものです。

家康は何年もかけて大規模な工事を行い、誰も欲しがらなかった関東を、日本一の穀倉地帯にすることに成功します。
家康の土地整備のおかげで、人々が外から江戸に移り住むようになり、そして400年後の今も、日本の中心としてあり続けています。
江戸の人口は今では3000万人に増え、世界でも有数の巨大都市となりました。何もない状態から、日本の中心「TOKYO」を作りあげたのは、家康だったんです。
今の東京があるのは家康のおかげなんだ!
関ヶ原の戦い裏の攻防戦

天下統一を目前にして、豊臣秀吉が病死すると、豊臣家を守ろうとする秀吉の家臣、石田三成(いしだみつなり)と権力を奪還しようとする家康の間で「関ヶ原(せきがはら)の戦い」戦が起こります。
日本中を巻き込んだこの戦いは三成の軍は8万、これに対し家康の軍は7万と、これまでの戦とは全く桁違いの大規模な戦となります。
三方ヶ原での惨敗の反省を生かし、家康はギリギリまで味方をかき集めることに奔走します。1か月間江戸城に引きこもって、各地の大名たちに120もの手紙を送り続けました。
この執念のお手紙作戦のおかげで、関ヶ原の戦いでは諸大名が次々と三成を裏切り、結果わずか半日で終結します。
メルマガ作戦が効いたんだねー!
徳川家康から学ぶ処世術
古い体質を壊してきた織田信長、農民から成り上がった豊臣秀吉とならぶと、地味で退屈なイメージが強く人気が劣る印象の家康。
ただ、250年も続く江戸幕府を作りあげた家康がいなければ、戦乱の世はずっと続いていたかもしれません。
現代を生きる私たちでも、そんな家康から学べることはたくさんあります。
律儀な部下を演じ続けた

今川義元、織田信長、豊臣秀吉と名だたる権力者たちのそばに仕えた家康は、上司に対して律儀者の部下を演じるプロだったといわれています。
これは、あまりに長かった人質生活で人の顔色を伺う力が自然と身についたからだといわれています。
小さい頃から家族を離れ、人質として暮らしていた家康は、母から与えられる無条件の愛を知らず、人の愛情や好意を前提にして生きていく術を知りませんでした。
三方ヶ原の戦いの後、信長から「おまえの家族が敵と通じていたんじゃないか?」と、家康の正室(せいしつ:妻)と子どもを疑われてしまいます。これを受け家康は、信長への忠誠心を見せるために、自分の妻と子どもを処刑します。
また、秀吉から「これまでの領土を手放し関東に移れ」と言われたときも、左遷とわかっていながらも文句ひとつ言わずに素直に従います。
家康はこうして上司に対し律儀な姿を見せ、忠義をもって上司を安心させることで生き延びて来たといわれています。
嫌いな上司でも上司は上司。家康はどんな上司の下でも耐え続けました。
しかしその上司がいなくなった瞬間、これまでの律義者の仮面を脱ぎ捨て、これまでずっと秘めてきた野望をむき出しにする、それが家康です。
心の底では嫌いな上司でも、家康の「タヌキっぷり」を見習って律儀に尽くす姿を見せてみるのもいいかもしれません。
自分の仲間こそ1番の宝

昨日は信長、明日は秀吉、上司によってコロコロと態度を変える日和見主義な家康でも、なぜか部下たちからは絶大な信頼を得ていました。
秀吉が関白になった頃、秀吉は諸大名を集めて自分の所有する宝物を自慢し、家康に「お前はどんな宝物を持ってるのか?」とたずねます。
それに対して家康は「私は田舎の生まれですので、これといった秘蔵の品はありません。しかし、私のために命を賭けてくれる武士が500人ほどおります。この侍たちは何にもかえがたい宝と思って、いつも秘蔵しています」と答えたといわれています。
家康の不運の時代から一緒にずっと耐えて、苦楽を共にしてくた優秀な仲間たちがいたからこそ、家康はここまで大きなことを成し遂げることができました。
まわりの信頼はそういうところから徐々に集まってくるものかもしれません。
負けから学ぶ失敗学

三方ヶ原の戦いの大敗北をうけて、家康はそのころの悔しさと恐怖を絶対に忘れないようにと戒めを込めて、恐怖におののく自分の顔を自画像に収め、生涯部屋に飾ったといわれています。
人は完璧ではないので、生きていれば必ず失敗がつきものです。
そしてその失敗することは恥ずかしいことなので、できれば記憶から決して葬り去りたいと思いがちです。
しかし家康は、自分の屈辱的な失敗を生涯戒めにすることで失敗と真摯に向き合い、「あの敗北を失敗でおわらすまい」という執念がありました。
人は負けることを知りて、人より勝れり。
勝つことばかり知りて 負くるを知らざれば 害その身に至る。
徳川家康
失敗から学ぶということは、失敗ときちんと向き合うこと。
それができて初めて失敗を成功に変えることができるのかもしれません。
この失敗から学ぶ姿勢は、天才発明家のエジソンと似ている点が多いです。
徳川家康をもっと知りたい
天下泰平の江戸時代265年の基礎を築いた家康。人質だった子ども時代、織田信長・豊臣秀吉に仕えた武将時代…苦難の連続の末、天下分け目の戦いに勝利し、ついに天下人となるのだった…!
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「麒麟がくる」の徳川家康が見もの

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」徳川家康役には風間俊介さんが抜擢されました。
ドラマでは幼少期の人質時代の頃からの家康が描かれ、将棋にわざと負けて大人の機嫌を取る、ただ者じゃない感が話題を呼びましたね。
これまで放送された「麒麟がくる」は「NHKオンデマンド」と提携している動画配信サービス「U-NEXT」で全話配信されています。
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いかがでしたでしょうか?
偉人から学べることはまだまだたくさんあります。
ぜひ他の記事も参考にして明日から役立ててみてくださいね。
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asuka(30代)
twitter : asuka@麒麟を待つおんな
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