今回は明智光秀(あけちみつひで)の娘、細川ガラシャを取り上げます。
わあ美人さん!
ガラシャは戦国イチの美女と言われていたんだ。
明智光秀の娘、細川ガラシャは激動の人生を送った悲劇のヒロインとして日本史上でも有名な女性です。
2020年大河ドラマ「麒麟がくる」では芦田愛菜さんが演じることが発表されました。
今回はそんな細川ガラシャから学べる処世術を紹介していきます。
目次
細川ガラシャのプロフィール

名前:細川ガラシャ/細川珠(ほそかわたま)
生年月日: 1563年?月?日
生まれ: 越前国(えちぜんのくに・今の福井県越前市)
家紋:細川九曜紋(ほそかわくようもん)

・明智光秀の娘
・細川藤孝(ほそかわふじたか)の息子 忠興(ただおき)の妻
ちょっとまて「ガラシャ」ってなんでカタカナなの?
キラキラネーム?
いい質問!それも踏まえてガラシャの生涯をみてみよう。
わかりやすいように「ガラシャ」という名前で統一しますね。
戦国一の美女

細川ガラシャは美濃(みの:岐阜県)から逃れて越前(えちぜん:福井県)で暮らしていた明智光秀の娘として生まれます。
ガラシャはその美しさから戦国一の美女といわれ、さらに和歌や儒教などの教養も兼ね備えていたため、まさに才色兼備の女性として大人になります。
美人で頭いいとか無敵やでこれ。
幸せいっぱいの結婚生活

やがて父親である明智光秀が織田信長(おだのぶなが)の下で働くようになると、16歳になったガラシャは、細川藤孝(ほそかわふじたか)の息子、細川忠興(ただおき)と結婚することになります。
明智光秀の娘と細川藤孝の息子の結婚は、光秀の主君(上司)である織田信長の提案だったといわれています。
信長は優秀な部下の子ども同士を結婚させることで、より強固な組織を作りたかったといわれているんだ。
戦国一の美女と言われた美しいガラシャとの結婚に、忠興は幸せいっぱい。わざわざ手作りのカルタを作ってプレゼントするなどしてとにかくガラシャのことを大切にします。
同時に忠興(ただおき)はどんどん出世し、丹後(たんご:京都府北部)に12万石を与えられ幸せな結婚生活を送っていました。
12万石はだいたい3,000人の部下を抱える会社くらいのイメージ。ガラシャはその大企業の社長夫人のような立場だね。
いいなー仕事できる夫に愛される妻♡
「本能寺の変」で人生のどん底に

子どもにも恵まれ幸せな結婚生活を送っていたガラシャは、突如人生のどん底に突き落とされることになります。
1582年、ガラシャの父 明智光秀が織田信長を暗殺する「本能寺の変」が起きたことで、ガラシャは一変して「主君を裏切った殺人犯の娘」という汚名を背負うことになってしまいます。
「本能寺の変」直後、駆け付けた信長の家臣(部下)豊臣秀吉(とよとみひでよし)や柴田勝家(しばたかついえ)は明智光秀を討とうと兵をあげたため、光秀は娘ガラシャの嫁ぎ先である細川家に対し援軍を送るようにと頼みます。
しかし、細川家は「信長を暗殺するなんて許せない」とこれに応じず、結果光秀の軍は惨敗し、光秀は逃げいった森の中で何者かに殺されてしまいます。
父親が突如として犯罪者になったことで、ガラシャの人生は一変…
細川家の中では「ガラシャとは離婚しろ」「ガラシャは自殺させるべきだ」という声が上がり始めますが、夫の忠興は離婚を選ぶ代わりに、妻を陸の孤島の山奥に幽閉(ゆうへい・監禁)することを決めます。
?!監禁?!
世間体(せけんてい)を気にした忠興の苦肉の策だったんだね。
人里離れた山奥での監禁生活

ガラシャは夫の命令で子どもたちからも引き離され、数人のお手伝いさんたちと一緒に、山奥での幽閉生活を送ることになります。
当時忠興との子どもを身ごもっていたガラシャは、自分の人生の行く末もわからないままただ不安に襲われる日々…
自分は何も悪くないのに…かわいそすぎる
そんなガラシャをそばで支えたのが、彼女の身の回りの世話をする「いと」という名の女性でした。いとは儒学者の娘で教養に飛んでいたため、宗教にも精通していたため、生涯ガラシャの精神的な支えになったといわれています。
夫からの過剰な束縛とモラハラ

山奥での幽閉生活から2年が過ぎたころ、夫忠興が新たに権力を手にした豊臣秀吉(とよとみひでよし)に掛け合ってくれたおかげで、ガラシャはこれまでの生活に戻ることになります。
しかしその後の生活は、ガラシャにとっては幽閉よりも辛いものとなりました。
夫忠興は、ガラシャが幽閉されていた間に側室(そくしつ:愛人)を設け子どもができていたこともあり、忠興はかつてのようにガラシャに優しく接することはなく、むしろヒステリックなほど辛くあたるようになります。
忠興は、ガラシャを外出禁止にし屋敷に監禁し続け、部下に四六時中監視させ続けました。またガラシャが誰かに手紙を送るときや、受け取るときは必ずその内容に目を通してチェックしていたほど厳しいものでした。
閉ざされた世界の中で、完全に自由を奪われたガラシャはどんどん精神的にふさぎ込んでいきます。
え…忠興ヤバくない?どした忠興…
ガラシャの美貌は有名だったこともあって、忠興は自分の妻が他の男の目に触れることを過剰なまでに嫌ってたといわれてるんだ。
こんな逸話も残ってるんだよ↓
ある日、新しく入ってきた家臣(部下)がガラシャの部屋のある中庭に知らずに入ってしまったことにブチギレした忠興は、なんとその場でその部下の首をはね、自分の刀にこびりついた血を、となりでおびえるガラシャの着物でこれ見よがしに拭ったという逸話があります。
しかしガラシャも負けん気の強い性格だったため「これに動じては負け」と考え、3日、4日とその血の付いたままの着物を着続けて夫に見せつけたといわれています。
そんな態度のガラシャを忠興は「おまえはヘビみたいなイヤな女だ」とののしりましたが、ガラシャもまた「そういうあなたは鬼よ。鬼にはヘビ女がお似合いね。」と言い返したようです。
ガラシャつえぇー!
自由を求めてキリシタンになる

当時の日本は、フランシス・ザビエルが日本にキリスト教を浸透させたことで、中国の古い思想「儒教(じゅきょう)」から、徐々にキリスト教に改宗する信者が増えていました。
ガラシャと夫忠興の間は、忠興のゆがんだ愛情表現により冷めきっていましたが、唯一ガラシャが嬉しそうに忠興の話に耳を傾けたといわれているのが、忠興が(同僚から聞いた)キリスト教の話をしてくれる時でした。
ガラシャが小さい頃から教えられていた儒教では「三従教え(さんじゅうのおしえ)」という教えがあり”女は一生男に従って生きろ”というものでした。
- 子どもの頃は父親に従う
- 結婚したら夫に従う
- 子どもができたら長男に従う
しかし、キリスト教の教えでは「神の前では誰であってもみんな平等」とされていたことが、当時不運な仕打ちを受けていたガラシャにとっては大きな救いだったのかもしれません。
キリスト教に対する興味を止められなかったガラシャは、外出禁止の中、お手伝いさんの女性「いと」の助けをうけて夜中にこっそり家を抜け出し、近くの教会に駆け込んで宣教師(せんきょうし:キリストを広める人)に話を聞きにいきます。
ー当時ガラシャにキリスト教の教えを説いた宣教師はこう記しています。
キリスト教に強く共感したガラシャは、洗礼をうけキリスト教名「Garcia(ガルシア)」という名前をもらいます。
なるほど!それでガラシャなのか。
キリスト教が突然禁止に

ガラシャがキリスト教に入信した翌年の1587年、豊臣秀吉によりキリスト教入信禁止、宣教師の国外追放という「バテレン追放令」が出されます。
九州に勢力を拡大した秀吉は、九州でのキリスト教団体の影響力が強すぎることに警戒したんだ。
これをうけて、秀吉の部下の忠興はガラシャに短刀を突き付けて「キリスト教から改宗しろ」と言いますが、ガラシャは首を縦に振りませんでした。
ガラシャは夫忠興との離婚を望みますが、キリスト教では離婚は禁止されていたため「どんな迫害をうけても、私の信仰心に変わりはありません」と覚悟を決めて苦難に立ち向かうことを誓います。
関ヶ原の戦いを左右したガラシャの死

豊臣秀吉が病死すると、豊臣政権を守ろうとする秀吉の部下 石田三成(いしだみつなり)と新たに天下を狙う徳川家康(とくがわいえやす)の2つの勢力が日本中を巻き込んで大規模な戦争がはじまります。
日本が東軍と西軍に分かれ、日本中の兵力が関ヶ原(せきがはら:岐阜県)に結集した1600年の関ヶ原の戦いです。しかしこの戦はわずか半日で決着がつき、徳川家康の圧勝となるのです。
え?戦争って何日もかけてたたかうんでしょ?なんですぐに決着ついたの?
実はそこにガラシャが関係してたといわれているんだ。
天下分け目の関ヶ原の戦いの3か月前、石田三成は敵対する家康側についていた細川忠興の留守を狙って、忠興が溺愛するガラシャを人質にすることで、細川家をこちらに寝返らせようとう作戦を立てていました。
力のある細川家が寝返れば、他の大名たちも次々とこちら側に寝返るだろうと踏んでいたのです。
そしてついに、忠興が東北に戦争に行っている隙を狙った石田軍がある晩、細川家をぐるりと包囲し「ガラシャを人質に差し出せ」と責め寄ります。
しかしガラシャは、自分が人質になれば敵の思うままとなり、細川家の妻としても面目がたたないことをよく理解していました。
覚悟を決めたガラシャは、家に仕えていた周りものを逃がし、一人残した家臣に「自分を殺せ」と命令し、その命をたちます…
え…
キリスト教では自殺も禁じられていたから、ガラシャはこの方法を選んだんだ。
このガラシャの切なくも潔い死は、歴史を大きく変えることになりました。
細川ガラシャを死なせてしまったことで、石田三成に対する怒りや不満が高まった諸大名たちは打倒石田軍の思いをもとに、さらに結束を高めたといわれています。
ガラシャ辞世の句

死ぬ前にガラシャが残した辞世の句が今でも残っています。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ
花は散る季節を知っているからこそ、花として美しい。
私もそうありたい。
キリスト教禁令の中、夫忠興はガラシャのために教会で葬儀を上げ、涙を流したといわれています。そしてその後も独身を貫くことでガラシャを思い続けたといわれています。
細川家の子孫で、第79代内閣総理大臣となった細川護煕(ほそかわもりひろ)が辞任する際にも、ガラシャの句を詠んだといわれています。
細川ガラシャから学ぶ処世術
本能寺の変から、関ヶ原の戦いまでの激動の日本に翻弄されたガラシャ。
戦乱の世をたくましく生きた一人の女性から、わたしたちが学べることはたくさんあります。
理不尽に負けない強さ

父親の信長暗殺から人生が一変したガラシャは、犯罪者の娘という十字架を背負い続ける人生を送りました。
自分ではどうにもならないことのせいで理不尽な仕打ちを受けますが、ガラシャは決してその逆境に負けることはありませんでした。
辛い状況を打破するために、キリスト教を熱心に勉強することで自らを救おうと努力する姿もまた、逞しく映ります。
ただ、卑屈なったところで状況は何も変わりません。
そんな時はガラシャのように、どうやったらこの状況から救われるのか?と常に考えられるたくましさを身に着けたいです。
自由を求め続けた

人生の半分を監禁されて過ごしたガラシャにとって、自由は当たり前のものではありませんでした。
外を自由に出歩くような肉体的な自由が許されなかったガラシャは、精神的な自由を求め、キリスト教に入信することを決意します。
当時は当たり前だった儒教の教えに疑問を抱き、女性としての自由を宗教に求めました。自分の置かれた状況に甘んじることなく、自分の精神を解き放つことで自分を救うことができました。
追い詰められているときにこそ、これまでとは全く違う価値観を持つ人の思想に触れ、全く別の価値に触れてみるのがいいかもしれません。どこかに突破口があるのかも。
細川ガラシャをもっと知ろう
歴史番組でおなじみの歴史学者加来先生が監修する、わかりやすい戦国人物伝コミックスがおすすめです。

時代の波に翻弄されながらも、戦国乱世をたくましく生きぬいた、一女性の波瀾の生涯をえがく。
偉人から学べることはまだまだたくさんあります。
ぜひ他の記事も参考にして明日から役立ててみてくださいね。
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プロフィール

asuka(30代)
twitter : asuka@麒麟を待つおんな
超ライトな歴史好き(歴史勉強中)
歴史は大人になってからの方が面白いと気付いた元日本史アレルギーのアラサーOL