今回は戦国時最高の悪人と呼ばれる松永久秀(まつながひさひで)を取り上げます。
誰?知らない人。
久秀はアクの強い武将として歴史ファンからは根強い人気があるんだ。
戦国時代に関西に京都や奈良を中心に暴れまわっていた松永久秀(まつながひさひで)。その豪快な性格が根強い人気を誇っています。
今回はそんな松永久秀から学べる処世術を紹介していきます。
目次
松永久秀のプロフィール

名前:松永久秀(まつながひさひで)
生年月日: 1508年・1510年?
生まれ: 堺(さかい:大阪)?
仕事:三好家の秘書・武将
家紋:




わぁただ者じゃない感出てるね‥
まずは松永久秀の生涯をサクッとみてみよう。
三好長慶の秘書として仕える

松永久秀の生涯は謎が多く、生まれた場所や時期もはっきりとした資料が残っていないため、あまり良い家の生まれではないのではないかと言われています。
久秀は1533年頃から、畿内(きない・関西エリア)・阿波国(あわのくに・徳島県)の大名で、後に室町幕府を牛耳ることになる三好長慶(みよしながよし)の秘書として働いていたことがわかっています。
文字の読み書きができ、教養もあり仕事ができる久秀のことを、上司である三好長慶はいたく気に入り、自分の息子と同等の位につけて可愛がります。
久秀は教養人として和歌や茶などにも詳しかったため、室町幕府将軍の足利義輝(あしかがよしてる)にも気に入られ、三好家と幕府の間の交渉役としても重宝されます。
1564年、次々と家族が亡くなったことを理由に気を病んだ三好長慶が亡くなると、三好家の長逸・宗渭・友通の3人「三好三人衆(みよしさんにんしゅう)」と共に、久秀は三好家の代表格のような存在となりました。
意外とちゃんとした人なんだね。
三好三人衆が足利義輝を暗殺

1565年、権力を拡大したい三好三人衆らが、久秀の息子と一緒に室町幕府将軍の足利義輝(あしかがよしてる)を暗殺します。
幕府の将軍殺しのこのスキャンダルは久秀が首謀者のように言われていますが、実は久秀は現場にはいなかったことがわかっています。
ただ、久秀の息子が関わったことと、その後とくに久秀が彼らに対し処罰を与えていなかったことから、影の首謀者なのではとも言われています。
わー将軍殺すとか、今の総理大臣暗殺しちゃうようなもんでしょ?
本当のことはわかってないけれど、これも久秀のせいにされてるんだ。
東大寺大仏殿焼き討ち

1567年、三好三人衆と対立した三好義継(みよしよしつぐ)に助けを求められたことをきっかけに、三好三人衆と対決します。
その戦場となったのが皆さんもよくご存知の東大寺(とうだいじ)。
そのため「東大寺大仏殿(とうだいじだいぶつでん)の戦い」と言われています。
お寺が主戦場となったためこの戦いの際に大仏が焼け落ちてしまいました。
わー…みんなが頑張って作ったあの大仏…焼けちゃったかー…
このことを理由に、久秀が大仏を焼き払ったといわれていますが、これもまた久秀のせいにされただけなのかもしれません。
織田信長に忠誠を誓う

1568年、力を強めていた織田信長(おだのぶなが)のサポートを受けて第15代足利義昭(あしかがよしあき)が京都への上洛を果たすと、久秀は真っ先に信長に忠誠を誓っています。
久秀は信長に対し、人質と一緒に超高級茶器「九十九髪茄子(つくもかみなす)」をプレゼントすることで「信長さんのことは裏切ったりしませんからご安心ください」という意思表示をしました。
久秀を気に入った信長は、久秀を室町幕府の重要なポストに迎え、大和(やまと・奈良県)の支配を許可し、兵を送りサポートまでしました。
そんな信長に久秀も全力で答え、数々の戦いで信長のために尽くしました。
信長と仲良くしてたなんて意外
似た者同士の二人だからこそどこか惹かれたのかもしれないね。
織田信長を2度も裏切る

1571年、第15代足利義昭が信長と対立し、東北地方や中国地方から信長をぐるりと囲み挟み撃ちにする「信長包囲網(のぶながほういもう)」が固まり始め、甲斐(かい・山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)が信長攻めを開始すると、
「もはや織田信長に未来はない」と感じた久秀は信長に対し反旗を翻し裏切ります。
信長裏切るなんて肝すわってる…!
しかし、対する織田信長もそう簡単には屈しません。
そして久秀に追い打ちをかけるように信長包囲網の頼みだった武田信玄が亡くなってしまいます。
久秀は自分の城である多聞(たもん)城に立てこもりますが、信長から「城の没収と引き換えを条件に許すよ」といわれ、再び信長に忠誠を誓うことで許してもらうこととなります。
しかし、一度裏切った者の扱いはひどくなるあまり。
信長は久秀をこれまでと同じようには扱わず、戦では常に危険な最前線で戦わせる「鉄砲玉」として酷使しました。
1577年、信長の命令で石山本願寺(いしやまほんがんじ)攻めの最前線で戦わされていた久秀は、突如、戦場を放棄して信貴山(しぎさん)城に立てこもってしまいます。
その突然の行動に驚いた信長は「え?なんで?ヤダったなら言ってよ、対処するからさ」という伝言を使者を派遣して、久秀に真意を聞くように計らいますが、久秀はこれを無視します。
2度も裏切った久秀に対して信長がこんなにも譲歩するなんて珍しいことなんだ。
怒った信長は4万人の兵を連れ久秀の立てこもる信貴山城をぐるりと包囲し、久秀が大切にしていた高級茶器「平蜘蛛(ひらぐも)」を渡したら許してやるから降参しろと提案します。
しかし久秀はそれも無視し「我々の首とひらぐもは信長公のお目にはかけぬぞ」を言い放ち、平蜘蛛をたたき割って自害たと伝えられています。

久秀の豪快なイメージから後に、この平蜘蛛に火薬を詰め込み、茶器もろとも爆死したと脚色されて語り継がれています。
わわわ、切ない最後だね…
諸説あるけれど、もしかしたらみんなが言うほどの悪人じゃなかったかもしれないね。
松永久秀から学ぶ処世術
時の将軍を暗殺し、東大寺の大仏を焼き払ってしまう、そんな豪快なイメージで語られる松永久秀。
そんな久秀から現代の私たちは何が学べるでしょうか?
時の権力者にうまくとりいる

松永久秀はその出生も明らかになっていないほど、生まれも身分も不明な謎多き人です。
そんなどこの馬の骨かわからないような久秀が、なぜ当時の権力者たちに大変気に入られていたのでしょうか?
関西エリアを仕切っていた三好家に気に入られ、また同時に室町幕府将軍にも気に入られ、さらには織田信長にも気に入られているという人物はただものではありません。
その理由は定かではありませんが、天変地異や裏切りが当たり前の乱世において、久秀は権力バランスを察知するアンテナを高く張り、まるで波のように乗りこなしていたように感じます。
教養も身に着けて武装する

松永久秀が時の権力者たちに気に入られた理由は、もちろんその人間性ということもあったかもしれませんが、何よりもまず文化教養にとんでいたからと言われています。
久秀は当時の大名や将軍が親しむ和歌を愛し、茶の世界にも精通していました。
和歌や茶よりも戦を愛する世俗的な武将が各地で名を挙げる戦国時代において、貴族がたしなむ文化を理解しているものは重宝されました。
権力者と対等に渡り合うようになるには、まずその人の目線で同じように語れるような教養を身に着けて武装することが重要です。
これはいつの時代も同じことで、教養を身に着けることで引き出しも増えて、その分チャンスも増えるんだと信じています。
文学で親しむ松永久秀
芥川賞作家の花村萬月が松永久秀の人生を時代小説として描いています。
戦国時代を舞台に「悪とは何か」を問う新感覚の時代小説で週刊朝日「時代小説ベスト10」にも選ばれた名作です。
「麒麟がくる」の松永久秀がハマり役

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の松永久秀役には吉田剛太郎さんが抜擢されました。
序盤からそのアクの強いキャラクターが話題を呼んでいますね。
これまで放送された「麒麟がくる」は「NHKオンデマンド」と提携している動画配信サービス「U-NEXT」で全話配信されています。
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偉人から学べることはまだまだたくさんあります。
ぜひ他の記事も参考にして明日から役立ててみてくださいね。
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プロフィール

asuka(30代)
twitter : asuka@麒麟を待つおんな
超ライトな歴史好き(歴史勉強中)
歴史は大人になってからの方が面白いと気付いた元日本史アレルギーのアラサーOL