朝倉義景から学ぶ処世術|戦国では無能な武将?反面教師にしたい3つの失敗

今回は戦国時代に越前(えちぜん:今の福井県・石川県)を納めた朝倉義景(あさくらよしかげ)を紹介します。

んーこの人知らない。有名なの?

無能な武将といわれながらも「最後まで信長に盾ついた人」っていうイメージでその名が知られているよ。

100年もの間、越前を納めてきた朝倉家。

朝倉義景は代々続く越前を守り抜き、京都と並ぶほどの文化の優れた城下町にしたといわれています。

しかしそんな彼は歴史上あまり良いイメージで語られることはありません。

今回はそんな朝倉義景を反面教師として処世術を学んでいきたいと思います。

朝倉義景のプロフィール

名前:朝倉義景(あさくらよしかげ)

生まれた年: 1533年

生まれた地: 越前

仕事:越前の守護大名

家紋:三つ盛木瓜(みつもりもっこう)

100年続く越前の守護朝倉家(名門)の生まれ。11代続いた朝倉家の最後の当主。

室町幕府将軍の足利義昭(あしかがよしあき)に仕え、頼りにされるほど戦国時代では有力な大名のひとり。

大河ドラマ「麒麟がくる」(2020年)

大河ドラマ「麒麟がくる」ではユースケ・サンタマリアさんが演じて話題になりました。

ドラマでは一癖も二癖もあるつかみどころのない義景が表現されています。

まずは朝倉義景の生涯をサクッとみてみよう。

名門生まれのお坊ちゃま

一乗谷朝倉氏遺跡

朝倉義景は、平安時代の孝徳天皇(こうとくてんのう)の血を引くとされる朝倉家、つまり名門中の名門に生まれます。

1548年、義景がわずか16歳の頃父親が亡くなったため若くして家督を継ぐことに。

ただ、まだ若く越前をまとめる政治力もなかった義景は、いとこの朝倉宗滴(あさくらそうてき)に大半の政治を任せることになります。

自分は歌や芸術などの文化に熱中し、大変な政治はいとこにまかせっきり…

これがのちの義景を苦しめることになります。

成長したあとも面倒な政治を誰かに任せっきりにしてしまうのは、若くして家督を継いだ当主あるあるなんだよね。

将軍にも頼られる有力大名

100年以上にわたり越前を統治する朝倉家は、たびたび起こる一向一揆に対処しながらもその系譜を守り抜きながら、代々室町幕府に忠誠を誓ってきたことが認められ、室町幕府将軍の足利義輝(あしかがよしてる)にも好かれていました。

朝倉義景の「義」の字は、当時足利義輝からもらった字を名前に付けて改名しているためで、それだけ将軍から懇意にされていたことがわかります。

幕府からこれまで以上の役職を与えられたことで、義景は朝倉家代々の当主の中で1番出世できた大名となります。

しかし幕府からの評価が高かった理由は、義景の実力ではなく、あくまでも先代やいとこの宗滴が実績が認められていたからこそ。

義景は頼りにしていた宗滴が死んでしまうと、これまで人任せだった政治を自分で担うことになり、徐々に力を弱めてしまいます。

なるほど親の七光りで出世できてたんだね。

そのころ、室町幕府が納めていた京都は、三好三人衆(みよしさんにんしゅう)に乗っ取られ、幕府将軍の足利義輝も三好に殺されてしまうほど、幕府の力が弱まっていました。

なんとか室町幕府の権威を取り戻したい足利義昭(あしかがよしあき)は、義景を頼って「一緒に京都に行って、三好三人衆たちを追い出すために戦って」とお願いします。

ただ、十分な兵力を持っていなかった義景は、当時とても強かった三好三人衆を怖がって義昭の願いを聞くことができませんでした。

このとき将軍の願いを聞き入れなかったことが、後にあだになるんだ。

好機を逃し信長に先手を打たれる

アジア, カルチャー, ランドマーク

上洛する(足利義昭を連れて京都まで行く)ことができなかった義景を見限った義昭は、そのころめきめきと力を伸ばしていた織田信長に接触します。

京都に戻り、再び幕府の権威を取り戻そうと必死の義昭は、三好三人衆を倒せる強い大名ならもう誰でもよかったんですね。

1568年、強大な兵力をもつ織田信長は義昭の願いを聞き入れて、ついに上洛を果たすことに成功するんです。

昔から将軍の存在は大きなステータスで、地方にいる大名がどれだけ武力が強くても、頭が良くても、結局出世するには幕府の将軍から認められ、役職を与えられ出世することが1番大事とされてきました。

そんな権威の塊の将軍の願いを聞き入れ、必死に戦った信長は全国に名をとどろかせるほどのステータスを手にすることになります。

さっそく信長は京都から各地の大名に手紙を送り「将軍が京都に上洛を果たしたからあいさつに来い」と伝えます。

これはつまり、「この会社の新しい役員は俺になったぞ。従うことの証に挨拶しに来い」ということでした。

その手紙はもちろん、越前の朝倉義景のもとにも届くことになります。

アンチ信長であり続けた義景

信長からの指令をうけながらも、朝倉義景は無視し続けました。

100年もの間、越前を納めてきた名門の義景にとって、田舎者の成り上がりである信長に従えることを嫌ったからです。

後に朝倉義景は、信長の猛威を恐れていたため、信長の領地をぐるりと取り囲む周辺地域の大名たちと同盟を結び「信長包囲網(のぶながほういもう)」を築きました。

四方八方から信長を囲むことで、信長は袋のネズミにして弱らせようと思っていたんです。

金ヶ崎の戦い 織田 vs 朝倉 

信長にとって、自分が手にした美濃(みの:今の岐阜)のすぐ上に面する越前は、どうしても押さえておきたい土地だったため、手紙を送ってもなかなか京都に上洛しようとせずに無視し続ける義景に対し「これは将軍に対する裏切りだ」と難癖をつけて1570年に越前に向けて出兵します。

京都から越前に兵を進めて義景と闘うには、近江(おうみ:今の滋賀県)に背中を無ることになってしまいますが、信長はずっと前からお隣さんだった近江を納める浅井長政(あざいながまさ)と仲良くするために、自分の大事な妹であるお市の方(おいちのかた)を嫁に出していたことで、血縁関係を作り保険をかけていました。

しかし、この金ヶ崎の戦いで信長は妹の旦那である浅井長政に裏切られてしまうことになるんです。

窮地に立たされた信長は、部下の明智光秀豊臣秀吉徳川家康に戦を任せて自分は京都に逃げるという選択をします。(金ヶ崎の退き口)

え!信長逃げたの?

浅井長政のまさかの裏切りで切羽詰まっていたんだね。

姉川の戦い 織田・徳川 vs 浅井・朝倉 

金ヶ崎の戦いで浅井長政に裏切られたことに怒った信長は、今度は兵を長政の領地である近江に進めます。

金ヶ崎の戦い直後、今の滋賀県にある姉川を挟んで両軍は対決し、結果織田・徳川の連合軍が勝利することになりました。(この功績が後に信長が家康を信頼するひとつのきっかけになりました)

一乗谷の戦い 織田 vs 朝倉

姉川の戦いから3年後の1573年、織田軍は越前の朝倉の居城である一乗谷城に向かって兵を進め、朝倉義景を追い詰めることになります。

窮地に立たされた義景は命からがらお寺に逃げ込みますが、そこでまさかのいとこに裏切られてしまい、自刃に追い込まれるという切ない展開で幕を閉じます。

朝倉義景から学ぶ処世術

信長に反抗し続けた結果、信長によって破られた義景。

歴史上人気のない偉人からも反面教師として学べることはたくさんあります。

時代の流れに柔軟であること

朝倉義景は上洛を果たした信長からの要望を無視し続けました。

これは成り上がりの信長が上洛を果たしたことに対する嫉妬と、身分の高い生まれの自分が、信長に屈することに対するプライドが許さなかったからと言われています。

これは現代でいうと、100年以上続く日本の老舗企業が、数年足らずで上場を果たしたIT企業に買収されるようなイメージかもしれません。

しかし、時代の流れは信長がリードしていたこともまた事実。

出る杭は打たれるといいますが、旧態を守り現状維持をしようとするこれまでの時代の在り方にしがみついた義景は、その大きな流れに乗ることができず結果滅びてしまうことになりました。

自分が受け入れられない考えや意見でも、10年後の未来には当たり前になっているかもしれません。

時代の流れに柔軟に対応することが、激動の今を生きるために求められているように感じます。

使える!処世術
余計なプライドを捨てる、これは結構難しいことですが、プライドが邪魔をしてしたたかに信長と手を取ることができなかった義景からは学ぶことが多いです。それと同時に共感もしてしまう。。

現場に出向くことの意味

朝倉義景は、戦となると決して現場に現れず代理をたてる「現場にいない」当主として有名です。

一向一揆鎮圧のための戦いでも、姉川の戦いでもしかり、朝倉義景は現場には決して出向かず、戦中は安全な城の中で宴会三昧だったという記録もあります。

リーダーが現場に出向かないことが、現場にどういう影響を与えるかは、これまでの歴史でも明確ですよね。

織田信長や武田信玄、上杉謙信など、名だたる武将は皆、現場に出向き必要であれば最前線で戦う武将だったと伝えられています。

槍や弓で戦う兵にとって、戦は足がすくむほど怖いもの。そんな彼らを奮い立たせて敵に向かって走らせるものは、戦意を駆り立てる大将の存在です。

義景はこういった部下の士気を高めることを怠り、後に部下たちから次々と裏切られることとなったのかもしれません。

仕事でも経営者がオフィスをぶらりと歩くだけで、部下たちのやる気が上がるという効果があるように、常に現場に関心をもち、最前線で活躍する部下たちと肩を並べ同じ景色を見ることには、大きな意味があります。

使える!処世術
常に現場を大切にしよう。
部下や後輩はもちろん、下請けの会社にも顔を出し、時には労わることを心がけると、信頼を上げることができるかもしれません。

チャンスは1度きり

朝倉義景の生涯を振り返ると、数々のチャンスをものにできずにいることがわかります。

信長をぐるりと囲み、勢力を弱めようとする「信長包囲網」において、義景には一度信長を追い詰めるチャンスが巡ってきます。

同胞の武田信玄から、信長を討つように言われたときも、

足利義昭上洛の手助けを頼まれた時も、

義景はことごとくチャンスをものにできず、信長に先手を取られしまいます。

仕事においても、このチャンスをものにできるかどうかが、あなたの価値を大きく左右するポイントになります。

大きなプロジェクトを任されたとき、反対にどうでもいい雑用を押し付けられたとき、どちらもあなたにとってはチャンスです。

「意外とやるな」と思わせる、その機会をモノにするかどうかはあなた次第です。

使える!処世術
どんなチャンスも1度しかめぐってきません。
つねにアンテナをたててすべての機会に食らいつくきもちで取り組みましょう。

朝倉義景をもっと知ろう

歴史番組でおなじみの歴史学者加来先生が監修する、わかりやすい戦国人物伝コミックスがおすすめです。

朝倉義景は一般に、代々の平安にあぐらをかいて織田信長に攻め滅ぼされた、無能の大名と思われています。しかし、実際の義景は、文武両道に優れ、先祖より受け継いだ一乗谷をさらに発展させた、優れた大名でした。そんな義景がなぜ滅ぼされたのか。一向一揆と織田信長、ふたつの巨大な敵と戦い続けた、義景の一生を描きます。

「麒麟がくる」の義景に注目

大河ドラマ「麒麟がくる」の朝倉義景にはユースケ・サンタマリアさんが抜擢されました。

戦を嫌い、文化芸術に夢中になるいいとこのお坊ちゃまのイメージをラストでがらりと変えてくれた作品となりました。

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プロフィール

asuka(30代)

twitter : asuka@麒麟を待つおんな

超ライトな歴史好き(歴史勉強中)

歴史は大人になってからの方が面白いと気付いた元日本史アレルギーのアラサーOL