明智光秀に学ぶ処世術|心優しい忠臣が暗殺に踏み切った狙いとは

今回は2020年大河ドラマ「麒麟が来る」で初めて大河ドラマの主役に選ばれた、戦国武将のひとり明智光秀(あけちみつひで)をご紹介します。

名前きいたことある!

明智光秀は織田信長を裏切った人として有名だね。

明智光秀のプロフィール

名前:明智光秀(あけちみつひで)

生年月日: 1528年3月10日

生まれ: 美濃(みの:岐阜県)

仕事:武将

家紋:桔梗紋(ききょうもん)

「本能寺の変」で織田信長を暗殺

「本能寺の変」の画像検索結果
明智光秀の軍が本能寺で織田信長を襲う画

「本能寺の変」は日本史三大ミステリーのひとつとされるほど謎に包まれています。

今から400年ほど前の1582年6月2日の早朝、京都の本能寺に泊まっていた織田信長(おだのぶなが)は重臣(部下)の明智光秀率いる軍勢に襲撃されます。

この時の織田信長は秘書など数人しか護衛に着けておらず、対する1万人以上と言われる明智軍の攻撃にたちまち追いやられ、自刃(自殺)に追い込まれました。

これが「本能寺の変」としてよく知られているシナリオですね。

え…数人に対して1万人なんてやりすきじゃない?なんで上司を暗殺しちゃったの?

明智光秀が織田信長を暗殺した理由は、いくつもの説があります。

怨恨(えんこん)説:光秀はパワハラ気質だった上司、織田信長に対して恨みがあった

野望(やぼう)説:光秀は信長に代わり虎視眈々(こしたんたん)と天下を狙っていた

黒幕(くろまく)説:光秀は誰かに命令されて信長を暗殺した

などなどこのほか50ほどの説があります。

本当の理由はいまだに謎のままなんだ。

明智光秀が謀反人でも人気がある理由

「明智光秀」の画像検索結果

本能寺の変以降、明智光秀は天下人の織田信長を裏切った大罪人として語り継がれています。

現代で言い換えれば、総理大臣を暗殺したテロリストといったところ。

でもそんなダークサイドの悪者がどうして人気なの?

それは明智光秀がひとりの人間として、とても魅力的な武将だからなんだ。彼の人生を振り返ってみよう。

明智光秀は若くして人生のろとうに迷う

明智光秀は、 生まれも良く十分な教育を受けて育ったお坊ちゃんでした。

ただ、従えていた当時の上司、斎藤道三(さいとうどうさん)が死んだあと、路頭に迷い美濃(みの:岐阜県)を出ると居場所を探して転々とする放浪者(フリーター)となってしまいます。

育ちが良く、頭脳明晰だった光秀には、常に高い理想があったため、そんな彼が理想とする主君(リーダー)を探し求めて、若いころは転々と浪人生活を送ります。

 優秀なのに思うように働けなかったんだね、なんだかかわいそう。

光秀は実力はあるのに若い頃発揮できる場がなくて悔しい思いをしてきたんだ。

明智光秀を救った織田信長

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https://toyokeizai.net/articles/-/156244

そんな光秀が理想のリーダーの下で働くようになったのが、40歳のころです。

尾張(おわり:愛知県)から天下統一を狙う織田信長の部下として働くことになりました。

生まれや育ちにかかわらず、常に実力のある優秀な部下だけを評価することで有名だった織田信長は、光秀の能力に目をつけスカウトしたと言われています。

実力だけをみてくれる信長の下で大いに実力を発揮した光秀は、他の優秀な部下たちがいながらも「ここ数年で最も利を与えた素晴らしい家臣」 として信長にべた褒めされたうえで、さまざまな重要プロジェクトを任される精鋭のひとりとなりました。

瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない。

明智光秀

光秀は織田信長の下で働く前の自分を「がれきのように落ちぶれていた」とし、そんな自分を助けてくれた信長へのご恩を一生忘れることはないと記しています。

光秀めちゃくちゃ信長のこと愛してんじゃん!

でもこの言葉はあの「本能寺の変」のわずか1年前に記されたんだ。

えええ!

妻を一途に思う愛妻家

光秀を語るうえで欠かせないのが、彼の苦しい人生をとなりで支え続けた妻、煕子(ひろこ)の存在です。

煕子が光秀に嫁ごうとしたとき、 煕子は不運にも病気にかかり顔にあざができてしまいます。

それを気にした煕子は、自分によく似ている妹を代わりに結婚相手にと提案しますが、光秀はきっぱりと断ったといわれています。

そんな光秀にまっすぐに愛された妻もまた、光秀が職を失い貧乏だったころ、自分の美しい髪を切り落とし、それを売って工面した夫思いの妻でした。

えめっちゃいい話

部下を平等に愛する上司

光秀は実力あるものだけに特別扱いする信長とは違い、すべての部下を平等に扱う人情深いリーダーとしても知られています。

光秀は、戦死した自分の部下をとむらうため、お寺にお米を寄付します。

戦死した部下の中には、重役もいればつかいっぱしりの下っ端まで何人もいましたが、光秀はその下っ端に至るまでも全員の名前を書き連ね、同じ分のお米を平等に寄付した記録が残っています。

理想の上司やで…

民と向き合う領主

信長に命じられて丹波(たんば:京都)侵略に成功した光秀は、その後与えられた丹波の地を、力で支配するのではなく、土地のことを良く知る地元の民たちに耳を傾け、必死に丹波の人たちのための政策を実行します。

農民を苦しめていた氾濫の多い川の工事や、貧困にあえぐ民のために税金を免除したりするなど、領主として良い政治を行ったとされています。

攻め獲った地でも光秀が身を粉にして丹波の人のために努力したおかげで、光秀は地元の人たちから愛され続け、今でも地元丹波では毎年5月になると光秀の勇壮な武者行列を再現する「明智光秀公武者行列」が行われています。

えちょっとまって、光秀まじでいいやつじゃん…
なんで悪者の要素1ミリも感じないんだけど。

明智光秀が命じられた辛すぎる仕事

明智光秀の上司、織田信長の家紋

明智光秀が本能寺の変を起こした理由は諸説ありますが、有力な説のひとつが光秀が信長に精神的に追い詰められていたという説です。

義理や情ではなく、徹底的に能力で人を見る織田信長にとって、そばに置きたいものは彼の思い通りに結果を残す優秀な部下(使えるコマ)のみ。

信長に献身的だった豊臣秀吉(とよとみひでよし)のような捨て身で優秀な部下に追い抜かれ、光秀は徐々に信長からの愛情を失っていきます。

残酷すぎる比叡山・延暦寺焼き討ち

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織田信長と敵対していた浅井長政(あざいながまさ)・朝倉義景(あさくらよしかげ)をかくまったとして、信長は伝統的なお寺が多数ある京都の比叡山・延暦寺(ひえいざん・えんりゃくじ)を焼き討ちにすることを光秀に命じます。

日本の歴史が詰まった貴重な仏像や建物が保存されている伝統のあるお寺を焼き払うことは、歴史や伝統を重んじる光秀にとっては耐え難いことでした。

さらに、信長は無情にも女や子ども関係なく全員を逃がさず皆殺しにしろと命じたのです。

これはあまりにも残酷な任務でした。

1571 年(本能寺の変の11年前)、光秀は信長に逆らえずにこの辛すぎる任務を実行し、3,000~4,000人を惨殺する指揮をとりました。

いやもうこれ、完全にメンタルやられる仕事でしょ…

最新の研究ではメインのお堂だけ焼いて信長のメンツを立てたともいわれているけれど、それだけやりたくない任務だったんだね。

その後、光秀は焼き討ちの功労者として比叡山・延暦寺の土地を信長から与えられ、織田の数ある部下の中で初めてお城の築城を許可されました。

しかし、光秀は信長に内緒でひそかに貴重な経典や僧侶たちを逃がして助けていたといわれています。

そして後に出世した光秀は、自分の領内となった比叡山・延暦寺を手厚く保護しています。

あからさますぎる朝廷への冒涜

当時、武士が出世するには朝廷(天皇)の認可を得なければなりませんでしたが、ほとんどの武士が都の礼儀作法や言葉遣いを知らないために朝廷に相手にされませんでした。

そこで信長は公家の文化に精通し、都の礼儀作法や言葉に詳しい光秀をコンサルタントや通訳のように重宝します。

一方、古くからの伝統や文化を重んじる光秀は、朝廷中心の政治をぶっ壊そうとする信長の行動にひやひやしていたといわれています。

1581年(本能寺の変の1年前)信長は京都で大規模な軍事パレードを行います。

「御馬揃え(おうまぞろえ)」と呼ばれるパレードの目的は京都の朝廷や公家に対して、「信長の威力」をアピールし、諸大名や朝廷をも威嚇する目的がありました。

突然すぎる領地の没収

1582年(本能寺の変の2週間前) 信長は突然、光秀にある命令を出します。

それは光秀が心を砕き、愛情を注いで育てた領地である丹波(たんば:京都北部)と近江(おうみ:滋賀)を没収し、代わりに信長の敵の領地である島根の出雲(いずも)と岩見(いわみ)を与えるという驚きの内容でした。

新たに光秀に与えられた出雲と岩見は、信長の宿敵である毛利家の支配下にあるため、これは事実上の領地没収ということになります。

え、いきなり?ひどすぎない?

当時では領地の石高(こくだか:その地でとれるお米の量)がその人の年収を表し、つまり領地がその人の権力の証となるため、これは光秀にとって突然、必死で築いてきた力を奪われてしまうという屈辱的な出来事でした。

そして光秀は、信長の命令通り毛利の侵略戦争のために戦の準備を整え、島根に向かうふりをして、その兵を信長が泊まる本能寺に向かわせるのでした。

おおお…ここで。

明智光秀は謀反人か革命家か

明智光秀が本能寺の変を起こすに至った本当の動機はいまだ謎のままですが、彼の人生や信長との関係をみていくとそこにドラマが見えてきます。

光秀が大切にしてきた価値や、光秀が理想としてきた政治の在り方という点で常に逆をいく信長の乱暴で残忍なやり方は光秀の目にどう映ったのでしょうか。

「このままじゃいけない―――」

動機は何であれ 光秀は確かに強く感じていたことでしょう。

明智光秀はただの「裏切り者」という言葉では片づけられないほど、彼の底知れない人間的な魅力があるからこそ、高い人気があるのかもしれません。

わー!なんか思ってた人と違ったなぁ…切ない

信長のような革新的かつ残忍なリーダーが、あのまま日本の伝統も歴史もすべて壊しつくしてしまっていたら…

明智光秀の名前が現代でも語り継がれ親しまれている理由は、もしもあのまま織田信長が天下を統一していたら、どうなっていただろう…と考えたとき、皆今のような日本が描けないことからかもしれません。

明智光秀から学ぶ処世術

光秀は本能寺の変の後すぐに、信長の死を聞きつけ駆け付けた豊臣秀吉によって討たれ、逃げ込んだ森で何者かに殺されてしまいます。

そんな不運な最後を遂げた光秀からも、現代を生きる私たちが学べることがたくさんあります。

危ない時にブレーキを踏む勇気

本能寺の変が起こった頃の信長は、日本全国で挙兵し、戦を繰り返すことで領土を拡大・天下統一を目前にしていました。

そんなイケイケなベンチャー企業の重役だった光秀は、黙って信長に従っていればもっと良い待遇が受けられていたかもしれません。

それでも光秀は、ひとり急ブレーキを踏み、リーダーを暗殺することを決意します。

世の中の大きな流れや、組織の権力者の独断によって間違った方向に進んでしまうことは今だって起こりうることです。

誰にも止められないほどの勢いがある流れの中で、人は流されてしまいがちです。

ましてや急にブレーキを踏むなんて、並大抵の意志の強さと勇気がないとできたものではありません。

もちろん、現代で暗殺は絶対に許されませんが、光秀を見習い、おかしいと思ったら「これはおかしい」と声を上げるくらいの小さな勇気くらいは持っておきたいものです。

「麒麟がくる」の光秀がカッコいい…!

大河ドラマ「麒麟がくる」(2020年)

2020年のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、明智光秀の目線で戦国の世が描かれています。

織田信長豊臣秀吉徳川家康と3英傑も登場する豪華な登場人物はもちろんのこと、明智光秀がとにかくかっこいいんです。

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プロフィール

asuka(30代)

twitter : asuka@麒麟を待つおんな

超ライトな歴史好き(歴史勉強中)

歴史は大人になってからの方が面白いと気付いた元日本史アレルギーのアラサーOL