源頼朝から学ぶ処世術|圧倒的な組織力と革命力

今回は鎌倉幕府を築き、武士中心の社会を作り上げた源頼朝(みなもとのよりとも)を取り上げます。

あらイケメン

頼朝は武士をまとめたカリスマだったんだ。

源頼朝(みなもとのよりとも)は、幼い頃に父親の源義朝(よしとも)が、ライバルの平清盛(たいらのきよもり)との戦いで敗れたことで、幼少期から「犯罪者の息子」として肩身の狭い人生を送っていました。

頼朝の父親義朝は平家によって処刑され、弟の源義経(よしつね)とも離れ離れにされてしまいます。

そんな不運な幼少期を送った頼朝は、決して平家への復讐を諦めませんでした。

大人になると、東日本の武士たちをまとめ上げ、当時権力を欲しいままにしていた平家から権力を奪い去り、日本で初めての幕府を築きます。

そのカリスマ的な組織力と革命力は、頼朝の死後も名だたる武将たちが憧れる存在として語り継がれています。

今回はそんな源頼朝から学べる処世術を紹介していきます。

源頼朝のプロフィール

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名前:源頼朝(みなもとのよりとも)

生年月日: 1147年5月9日

生まれ: 尾張(おわり・今の愛知県)*諸説あり

仕事:武士・鎌倉幕府の初代将軍

まずは源頼朝の功績をサクッとみてみよう。

鎌倉幕府を築いた男

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源頼朝は「良い国つくろう」(って覚えましたね)の鎌倉幕府を気づいた武将として有名です。

(後に1185年だったと教科書が書き換えられています)

平安時代、源氏と同じような武士の立場から一躍政治の世界に上り詰めた平家を倒し、朝廷(天皇)から征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府を開いたのが源頼朝です。

それまでのセレブな貴族中心の世ではなく、その後江戸時代まで長く続くことになる武士中心の「武家政治」を本格的に始めました。

そもそもどうして「幕府」をつくったの?

天皇や貴族たちとは別の武士の組織がきちんと政治を行えるようにしたからなんだ。

当時、平安時代は源氏のライバル平家たちが牛耳る貴族中心の世の中でした。

「平家にあらずんば、人にあらず」と言われる程、平清盛が築いた政権は盤石なものになっていました。

そもそも、頼朝のような武士たちは、貴族たちのボディーガードや戦に駆り出される兵隊としてその地位を確立していましたが、人を切るなんて仕事は今も昔も「汚れ仕事」。

武士たちは政治にかかわることはおろか、貴族から対等に扱ってもらえていませんでした。

命令通りに戦場に行っては命がけで戦う日々、力は強いのにずっと下っ端のまま…そんなことに不満を抱く武士たちはたくさんいました。

同じように西日本で力を拡大していた平家の長男・平清盛は、貿易で得た財力と、源氏をも破った武力でどんどんと出世を果たし、日本で初めて武士中心の政治権力を手にしていました。

そんな清盛に敗れた源氏の長男・源頼朝は、財力にものを言わせて贅沢に暮らす平家に復讐するため「打倒平家」を誓って、各地の武士たちをとりまとめ挙兵をするのです。

源頼朝から学ぶ処世術

頼朝の時代、武芸に優れた武士たちは各地にたくさんいました。

それなのになぜ頼朝がリーダーに上り詰め、各地の強い武士たちをとりまとめることができたのでしょうか?

今回はそんな源頼朝から学ぶ処世術をご紹介していきます。

ハッタリで突き進んだ

頼朝は、武家のなかでも比較的大きい源氏の長男として生まれた恵まれた子どもでしたが、お父さんが平家に負けた後は伊豆に流罪になり、一緒に戦う兵も40人ほどに落ちぶれてしまいました。

すこしでも動けばすぐに平家が命を狙いにくる、いわば指名手配犯のような扱いを受けて育ちました。

成長した頼朝は、自分と一緒に戦う仲間がほとんどいない中、関東から朝廷のある京都へ向かう道中、”ある方法で”どんどんと仲間を増やしていきます。

頼朝は平家に不満を抱いている豪族たちに手紙を送り、声高らかに「この戦いに勝てば”関東の土地はすべて頼朝に任せる”と天皇に近い人から言われている」 という令旨(命令書)を見せつけたんです。

当時平家に土地の権利を脅かされていた各地の豪族たちは「それならば!」と一気に戦いに協力しました。

でもこの命令書は頼朝の捏造だったんだ。

へ?!

リスクが大きい戦で味方してくれる人たちがいないことを知っていた頼朝の苦し紛れの戦略がハッタリだったということです。

でもその嘘がたくさんの人たちを動かし、最初は40人だった見方もみるみるうちに20万人に膨れ上がり、最終的には壇ノ浦(だんのうら)の戦いで平家を倒すことに成功します。

使える!処世術
権力者のお墨付きとあらば周りの人たちの見方が一気に変わるんですね。
嘘はリスクが大きいですが、いざという時は勇気を出してハッタリをかまして仲間を集めるのもいいかもしれません。

強力な組織で大勢をまとめ上げた

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平家との闘いに勝利した頼朝は、鎌倉に戻ると真っ先に関東の土地を各地の武士たちに分け与え、関東の治安が乱れないように整理しました。

もともと頼朝が力を付けることができた大きな背景のひとつに、関東の武士たちが源氏に対する熱い信頼を持っていたことが挙げられます。

頼朝の先祖たちは、戦で勝利をおさめるたびに何度か朝廷から褒美をもらっていました。

しかし、その褒美を決して一族で独り占めせずに、ともに戦った武士たちをたたえるために分け与えていたという歴史があり、そうしたことが源氏に対する信頼を強くすることとなるのです。

そういった教えをしっかりと受け継いだ頼朝は、功績をあげた武士たちにはそれ相応の見返りを保証してあげることで、クーデターが起こらないように、鎌倉幕府という一つの組織としてまとめ上げることができました。

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個性的で強力なメンバーたちを一つに束ねるには、ひとりひとりを大切に扱うこと、感謝を忘れないことが重要ですね。

現場のプライドを理解していた

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父親の源義朝が平家に敗れたのち、頼朝は実に20年間も伊豆に追いやられていました。

大自然のなか、武士の息子としてたくましく育った頼朝は、関東の強力な武士たちとともに過ごし、武士がこれまで受けてきた仕打ちや武士たちのもつ誇りをきちんと理解していました。

一方、頼朝とは違い京都で育った弟、源義経(みなもとのよしつね)は、関東武士たちとは遠く離れた都で、平家のみやびで豪華な暮らしを見て育ちました。

そんな義経をリーダーに据えて戦った源平の戦いの後、功績を認められた義経は朝廷から高い身分を与えられることになります。

そんな義経は関東の武士たちからは嫉妬の対象となりました。

だからこそ頼朝は、朝廷にもてはやされる弟を決してエコひいきすることはありませんでした。

頼朝が弟だからという理由でひいきしてしまうと現場の武士たちの反感を買ってしまうことがわかっていたからです。

使える!処世術
現場の気持ちをしっかりと理解し、建て前をきちんと示すことで部下たちの信頼を勝ち取ることができるかもしれません。

あくまでも朝廷をたて続けた

鎌倉時代よりも前の日本は、藤原家や平家がそうしたように、自分の娘を貴族と結婚させ天皇家との血縁関係を結ぶことで出世し、都合の良い政治をすることで成り立っていました。

源頼朝か築いた鎌倉幕府は、これまでに類を見ないとても画期的なシステムでした。

世界史を見てもわかるように、革命が起こり旧体制から武力で権力を奪ったのちは、旧体制のリーダーを引きずり下ろし、それに代わって新しいリーダーが国をまとめます。

源頼朝は源平の戦いで勝利したため、頼朝は朝廷(天皇)を引きずり降ろして、国のトップに就くことも可能でした。

しかし、頼朝はそれまでの旧権力(天皇)の立場は守りながらも、天皇に変わって武士が政治を行う「幕府」という新しいシステムを作り上げるのです。

これは、天皇がいながらも内閣が政治を行う、という現代にも受け継がれている独特なシステムです

使える!処世術
新しいシステムを生み出すことは容易ではありませんが、前例にとらわれず、本当にこのままでいいのかと一度立ち止まって考えてみる癖をつけるようにすることで、新しいシステムを生み出せるヒントになるかもしれません。

源頼朝をもっと知ろう

流人から身を起こし、日本初の武家政権をきずいた政治の天才!

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小難しいことはさておき、まずはサクッと漫画で生涯をおさらいしてみると頼朝の人となりが理解できるのでお勧めです。

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プロフィール

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twitter : asuka@麒麟を待つおんな

超ライトな歴史好き(歴史勉強中)

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