斎藤道三から学ぶ出世力

 

どうさん?だれこの怖そうな人?

 
 

(そうか…知らないのか…)信長がお手本にした武将としても知られているんだよ。

 

今回は戦国武将のひとり斎藤道三をご紹介します。

大河ドラマ「麒麟が来る」でも序盤に登場する斎藤道三。

道三は若き織田信長に影響を与えた武将としてもしられていて、道三を見れば自然と信長の生き方も見えてくるという面白さがあります。

斎藤道三は典型的な"下剋上武将"

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下剋上といえば、田舎のかばん持ちから総理大臣の座にまで上り詰めた豊臣秀吉の印象が強いですよね。

でも実は「下剋上といえば斎藤道三」といわれるほど、道三は己の人生を逆転させたことで有名な武将なんです。

 

この下剋上の方法がかなり残酷だったからこそ、同じく残酷な信長に影響をあたえたといわれるんだね。

 

斎藤道三は元セールスマン

道三はもともと油を扱う名もない商人(セールスマン)でした。

そのセールスの腕が認められ、美濃(岐阜県)を納める土岐氏(社長)の下に仕える守護(役員)にスカウトされ(株式会社美濃に入社し)守護の長井氏の下で働きます。

しかし、彼には「いつかはこの美濃(会社)を乗っ取りたい」という明確な野望がありました。

斎藤道三は陰謀と暗殺で大名になった

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そのため、長井氏(役員クラス)に言いがかりをつけて殺害した後、斎藤家(副社長クラス)を乗っ取り、さらには土岐頼芸(社長)の身内を毒殺し、最終的に土岐氏を追い出してしまうんです。

斎藤道三は全く血のつながりもない斎藤家を滅ぼしたのち斎藤の名を名乗り、上司だった土岐氏をも滅ぼし、美濃という国を支配するまでになるのです。

 

…え?やばくないこの人

 
 

非情な武将として名を馳せた理由はこの強引な出世方法なんだ。

 

道三のここまでの残虐で非道徳的な下剋上のやり方は周りの人から恐れられ「美濃のマムシ」と呼ばれ 家臣や領民からも恐れられるようになりました。

斎藤道三は娘(濃姫)を織田信長に嫁がせた

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斎藤道三が乗っ取った美濃は織田信長のお父さんが納める尾張(おわり:今の愛知県)の隣国(お隣)だったため、斎藤家と織田家の間は常に領土争いでピリついていました。

一度斎藤家と織田家が戦った際、斎藤家が圧勝したことをきっかけに、武闘派の斎藤道三都の力を恐れて織田信長のお父さんは斎藤家と織田家を姻戚関係にしようとします。

 

敵と手を組むんだ!しかも家族になるなんて…!

 

そこで斎藤道三は娘の帰蝶(きちょう・濃姫)を織田信長の妻として嫁がせることになります。

斎藤道三は信長の才能に気づいていた

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斎藤道三が織田信長に娘を嫁がせた頃、当時の信長には天下を狙う若き武将のオーラなど全然なかったといわれています。

信長の型にはまらない奇抜なファッションや、行儀の悪い態度などから「うつけ(やばいやつ)」と馬鹿にされていました。

「信長は織田家を継ぐものにはふさわしくない」そんな信長の噂はもちろん道三の耳にも届いていました。

そんな信長のお父さんが死去し、信長が織田家をつぐことになると、斎藤道三はいち早く信長との面会をセッティングします。

 

家族同士の面会と言っても、お互いに武装した兵をたくさん引き連れていくようなピリついた面会だったんだよ。

 
 

えー義理の親子なのに?こっわー!

 

「愚か者」という評判で油断していた道三は、信長に会って驚きます。

まず信長は道三の兵の何倍もの数で、また何倍もの武器を携えて行進をして待ち合わせ場所にやってきたからです。

そしてそこにいたのは噂に聞いていた姿とは全く違い、冷静に話をしながらも威厳と迫力を携えた立派な武将の信長でした。

武力も知恵もある信長を見て、道三は初めて「うつけを隠れ蓑にしていた(バカのふりをしていた)」信長の才能と知恵を感じたといわれています。

斎藤道三は織田信長の手本となる

斎藤道三は、尾張の国のいち武将にすぎなかった若き織田信長を史上最強の改革者に育て上げたともいわれています。

信長は父ではなく、斎藤道三から戦い方を学び、武器もや戦術を道三流を取り入れていきます。

名もなき商人から美濃の大名にまでのし上がった道三の計り知れない野望と、手段を択ばない残忍さが織田信長の価値観と似ているからでしょうか。

「天下獲りのためなら何をやってもいいんだ」と信長は道三を見て思ったのかもしれません。

 

うーわこの2人完全にダークサイドの人間じゃん。

 
 

そう、まさに道三がパルパティーンで、信長は悪に落ちたダースベイダーかもしれないね。

 

斎藤道三から学ぶ処世術

日本史では悪役として描かれる斎藤道三ですが、歴史に名を遺すだけあってやはり偉人であることは間違いありません。

出世争いという戦国の世を生き抜く私たちが彼から学べることをまとめてみましょう。

心は常に斎藤道三であれ

生まれも武家でない、ただの商人が大名に上り詰めるとはつまり、学閥も後ろ盾もない中卒のサラリーマンが、たたき上げで大企業の社長になるようなもの。

その手段は決して誇らしいことではありませんが、その野心は並大抵のものではなかったはずです。

使える!処世術
手段はさておき、大きな野望と強い野心は常に持ち続けよう。

昨日の敵は今日の家族

斎藤道三は宿敵である織田家に大事な娘を嫁がせることで、領土争いに歯止めをかけようとします。

昨日まで絶えず戦を続け貴重な領民(兵隊)が犠牲になったとしても、翌日には切り替えて家族関係になってしまうという、いたってドライで打算的な考え方はビジネスの世界でこそ見習うべき処世術です。

使える!処世術
昨日までのライバルや、別の派閥にいる人も、状況次第では手を組む必要が来るかもしれません。 感情で動かずに、常に「利益」を意識して行動しましょう。

「麒麟が来る」の道三にも注目

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2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」では序盤に登場する斎藤道三。

彼のキャラクターは果たしてどのように描かれるのでしょうか、目が離せませんね。

タイトル「麒麟が来る」に込められた思いを深堀した記事がこちら↓

斎藤道三にもっと学ぼう

今から約50年前の1973年に放送されたNHKの大河ドラマ「国盗り物語」では、今回ご紹介した斎藤道三が主役です。

誰もが天下盗りを夢見た戦国時代。 一介の浪人から身を起こした斉藤道三の野望の結末は…。

 

合わせて読みたい




明智光秀に学ぶ革命力

今回は2020年大河ドラマ「麒麟が来る」で初の主役に選ばれた、戦国武将のひとり明智光秀をご紹介します。

 

あー!なんかしってる!

 
 

そう、あの「本能寺の変」で有名な武将だね。

 

明智光秀が裏切ったとされる織田信長と言えば、このブログでも紹介したように、現代でも戦国武将No.1の人気を誇る武将。

明智光秀は「本能寺の変」で織田信長を暗殺

「本能寺の変」の画像検索結果
明智光秀の軍が本能寺で織田信長を襲う画

「本能寺の変」は日本史三大ミステリーの1つにカウントされるほど謎に包まれています。

今から400年ほど前の1582年6月2日の早朝、京都の本能寺に泊まっていた織田信長は重臣(部下)の明智光秀率いる軍勢に襲撃されます。

この時の織田信長は秘書など数人しか護衛に着けておらず、対する1万人以上と言われる明智軍の攻撃にたちまち追いやられ、自刃(自殺)に追い込まれました。

これが「本能寺の変」としてよく知られているシナリオですね。

 

え…数人に対して1万人なんてガチすぎw
なんで明智は信長を暗殺しちゃったの?

 

明智光秀が織田信長を暗殺した理由は諸説あるといわれています。

怨恨(えんこん)説:明智はパワハラ気質だった上司、織田信長にたいして恨みがあった

野望(やぼう)説:明智は信長に代わり虎視眈々(こしたんたん)と天下を狙っていた

黒幕(くろまく)説:明智は誰かに命令されて信長を暗殺した

 

本当の理由はいまだに謎のままなんだ。

 

明智光秀が謀反人でも人気がある理由とは

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本能寺の変以降、明智光秀は天下人の織田信長を裏切った大罪人として語り継がれています。

現代で言い換えれば、総理大臣を暗殺したテロリストといったところ。

 

でもそんなダークサイドの悪者がどうして大河で主役になれたの?

 

 

それは明智光秀がひとりの人間として、とても魅力的な武将だからなんだ。彼の人生を振り返ってみよう。

 

明智光秀は若くして人生のろとうに迷う

明智光秀という人間は、 生まれも良く、十分な教育を受けて育った、いわば「いいとこのお坊ちゃん」でした。

ただ、従えていた当時の上司、斎藤道三(さいとうどうさん)が死んだあと、路頭に迷い美濃(みのう:今でいう岐阜)を出ると居場所を探して転々とする放浪者(フリーター)となってしまいます。

育ちが良く、頭脳明晰だった光秀には、常に高い理想があったため、そんな彼が理想とする主君(リーダー)を探し求めて、若いころは転々と浪人生活を送ります。

 

優秀なのに思うように働けなかったんだね、なんだかかわいそう。

 

 

そう、明智は実力はあるのに発揮できる場がなくて悔しい思いをしてきたんだ。

 

明智光秀を救った織田信長

そんな明智が理想のリーダーに出会えたのが、40歳のころです。

尾張(おわり:今でいう愛知)から天下統一を狙う織田信長の部下として働くことになりました。

生まれや育ちにかかわらず、常に実力のある優秀な部下だけを評価することで有名だった織田信長は、光秀の能力に目をつけスカウトしました。

信長の下で着実に実力を発揮する光秀は、他の優秀な部下たちがいながらも「ここ数年で最も利を与えた素晴らしい家臣」 として信長にべた褒めされたうえで、さまざまな巨大プロジェクトを任される精鋭のひとりとなりました。

瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない。

光秀は織田信長と出会う前の自分を「がれきのように落ちぶれていた」とし、そんな自分を助けてくれた信長へのご恩を一生忘れることはないと記しています。

 

光秀めちゃくちゃ信長のこと愛してんじゃん!

 

 

そう、でもこの言葉はあの「本能寺の変」のわずか1年前に記された言葉なんだ。

 

 

えええええええええええええ!!!!何があったのよ!

 

光秀を語るうえで欠かせないのが、彼の苦しい人生をとなりで支え続けた妻、煕子(ひろこ)の存在です。

煕子が光秀に嫁ごうとしたとき、 煕子は不運にも病気にかかり顔にあざができてしまいます。

それを気にした煕子は、自分によく似ている妹を代わりに結婚相手にと提案しますが、光秀はきっぱりと断ったといわれています。

そんな光秀にまっすぐに愛された妻もまた、光秀が職を失い貧乏だったころ、自分の美しい髪を切り落とし、それを売って工面した献身的な妻でした。

部下を平等に愛する上司

光秀は実力あるものだけに特別扱いする信長とは違い、すべての部下を平等に扱う人情深いリーダーとしても知られています。

光秀は、戦死した自分の部下をとむらうため、お寺にお米を寄付します。

そのとき、戦死した身分の高い武士と、最下級の武士をみんな全く同じように扱い、部下ひとりひとりの名前を手書きし、それぞれに同じ量のお米を寄付しました。

民をひたむきに愛する領主

信長に命じられて丹波(たんば:今の京都)侵略に成功した光秀は、その後丹波を力で支配するのではなく、土地のことを良く知る地元の民たちに耳を傾け、必死に丹波の人たちのための政策を実行します。

農民を苦しめていた氾濫の多い川の工事や、貧困にあえぐ民のために税金を免除したりするなど、領主として良い政治を行ったとされています。

そんな光秀は地元の人たちから愛され続け、毎年5月になると今でも 光秀の勇壮な武者行列を再現する「明智光秀公武者行列」が丹波の城下町周辺を練り歩くお祭りが行われています。

 

えちょっとまって、光秀まじでいいやつじゃん…
なんで悪者の要素1ミリも感じないんだけど。

 

明智光秀が命じられた辛すぎる仕事

明智光秀の上司、織田信長の家紋

明智光秀が本能寺の変を起こした理由としては、諸説ることを先ほどご説明したかと思いますが、有力な説のひとつが光秀が信長に精神的に追い詰められていたという説です。

義理や情ではなく、徹底的に能力で人を見る織田信長にとって、そばに置きたいものは彼の思い通りに結果を残す優秀な部下(使えるコマ)のみ。

豊臣秀吉のような捨て身で優秀な部下に追い抜かれ、明智光秀は徐々に信長からの愛情を失っていきます。

残酷すぎる比叡山・延暦寺焼き討ち

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織田信長と敵対していた 浅井・朝倉軍 をかくまったとして、信長は伝統的なお寺が多数ある京都の比叡山・延暦寺を焼き討ちにすることを光秀に命じます。

歴史的に貴重な仏像や建物が保存されている伝統のあるお寺を焼き払うことは、歴史や伝統を重んじる光秀にとってはあまりにも残酷な任務でした。

さらに、信長は無情にも女や子ども関係なく全員を逃がさず皆殺しにしろと命じたのです。

1571 年(本能寺の変の11年前)、光秀は信長に逆らえずこの辛すぎる任務を実行し、3,000~4,000人を惨殺する指揮をとりました。

 

いやもうこれ、完全にメンタルやられる仕事でしょ…

 

その後、焼き討ちの功労者として比叡山延暦寺の土地を信長から与えられ、織田の数ある部下の中で初めてお城の築城を許可されました。

しかし光秀は信長に内緒でひそかに貴重な経典や僧侶たちを逃がして助けていたといわれています。そして後に出世した光秀は自分の領内となった比叡山延暦寺を手厚く保護しています。

あからさますぎる朝廷への冒涜

https://194116410.at.webry.info/201406/article_2.html

当時、武士が出世するには朝廷(天皇)の認可を得なければなりませんでしたが、ほとんどの武士が都の礼儀作法や言葉遣いを知らないために朝廷に相手にされませんでした。

そこで織田信長は公家の文化に精通し、都の礼儀作法や言葉に詳しい明智をコンサルタントや通訳のように重宝したといわれています。

一方、古くからの伝統や文化を重んじる光秀は朝廷中心の政治をぶっ壊そうとする信長の行動にひやひやしていたことも事実です。

1581年(本能寺の変の1年前)信長は京都で大規模な軍事パレードを行います。「御馬揃え(きょうとおうまぞろえ)」と呼ばれるパレードの目的は朝廷や公家に対して、「信長の威力」をアピールし、敵や朝廷を威嚇する目的がありました。

その一大イベントの葬式を光秀は任され、信長の意向通りにつつがなく実施することに成功するも、光秀の心境はおそらく複雑だったことでしょう。

突然すぎる領地の没収

1582年(本能寺の変の2週間前) 信長は突然、明智にある命令を出します。

それは明智が心を砕き、愛情を注いで育てた領地、丹波(たんば:今の京都)と近江(おうみ:今の滋賀)を没収し、代わりに信長の敵の領地である島根の出雲(いずも)と岩見(いわみ)を与えるという驚きの内容でした。

新たに光秀に与えられた出雲と岩見は信長の宿敵である毛利家の支配下にあるため、これは事実上の領地没収ということになります。

 

え、待っていきなりそんなひどいことされたの…泣きたい

 

当時では領地=年収=権力の証のため、光秀は突然これまでの権力を奪われる屈辱的な出来事でした。

そして光秀は、信長の命令通り毛利の侵略戦争のために戦の準備を整え、島根に向かうふりをして、その兵を信長が泊まる本能寺に向かわせるのでした。

明智光秀は謀反人か革命家か

明智光秀が本能寺の変を起こすに至った本当の動機はいまだ謎のままですが、彼の人生や信長との関係をみていくとそこにドラマが見えてきます。

光秀が大切にしてきた価値や、光秀が理想としてきた政治の在り方という点で常に逆をいく信長の乱暴で残忍なやり方は光秀の目にどう映ったのでしょうか。

「このままじゃいけない―――」

動機は何であれ 光秀は確かに強く感じていたことでしょう。

明智光秀はただの「裏切り者」という言葉では片づけられないほど、彼の底知れない人間的な魅力があるからこそ、高い人気があるのかもしれません。

使える!処世術
自分のリーダーと自分の目指す未来が大きく違っている場合、理不尽な状況に耐えられなくなった場合は、周りに相談しながらひそかに味方を集めクーデターの準備を進めましょう。 人事に訴えたり、内部通報するなど相手を組織から追放する方法はたくさんあります。

信長のような革新的かつ残忍なリーダーが、あのまま日本の伝統も歴史もすべて壊しつくしてしまっていたら…

明智光秀の名前が現代でも語り継がれ親しまれている理由は、もしもあのまま織田信長が天下を統一していたら、どうなっていただろう…と考えたとき、皆前向きな今のような日本が描けないことからかもしれません。

↓は彼を主役にした大河ドラマ「麒麟が来る」のタイトルに込められた意味を深堀しています。

http://www.oshiete.website/2020/01/12/%e3%80%8c%e9%ba%92%e9%ba%9f%e3%81%8c%e6%9d%a5%e3%82%8b%e3%80%8d%e9%ba%92%e9%ba%9f%e3%81%ae%e6%84%8f%e5%91%b3%e3%81%8c%e3%81%8b%e3%81%aa%e3%82%8a%e5%88%87%e3%81%aa%e3%81%84/
彼の人生を描いた大河ドラマ「麒麟が来る」の意味を深堀しています。

明智光秀にもっと学ぼう

 

合わせて読みたい

織田信長から学ぶ破壊力

室町幕府を倒幕し、愛知県から天下統一の野望を抱いた日本史上もっとも強烈なリーダー   織田信長(おだのぶなが)。  

今回はそんな織田信長から   現状を打破する「破壊力」   を学びたいと思います。

 

ついに来ました!織田信長!

 
 

あー!ホトトギス殺しちゃう人でしょー!

 
 

(んー間違ってはない…)

 

そう、日本人の好きな戦国武将No.1である織田信長は中世の日本を近世へと転換させた   「改革者」として有名。  

古い体制をことごとく破壊し、戦国の世を束ね、「天下統一」を夢見たリーダーだ。

織田信長はココがすごい

ガイダンス, グローブ, ナビゲーション
外国文化を積極的に取り入れ日本を中世から近世にシフトさせた
身分や肩書にとらわれない実力主義者
戦は武力ではなく情報戦ということを知っていた
身分や肩書にとらわれない実力主義者
誰でも扱える鉄砲を駆使してそれまでの戦を変えた
関所や通行税を撤廃し楽市楽座を実施し経済を活性化させた
政治と宗教を分断し、比叡山を焼き討ちにした
 

そんな信長の武勇伝を紹介しよう。

 

桶狭間の戦いで勝利

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「桶狭間今川義元血戦 」中心にいるのが隙を突かれて慌てる今川義元です

桶狭間の戦いは当時東海地方を牛耳っていた今川義元に 「桶狭間の戦い」の勝利が信長を一躍有名にしたデビュー戦。 

敵の今川軍に対して織田軍は1/10の兵力しかなかったようですが、今川軍が 休憩している隙をついて攻め込むという独特の手法  が有名ですね。

この戦のあとにとった織田信長の行動も有名です。戦が終わると、活躍した武士に褒美を与える習慣があります。

普通は敵の首を勝ち取った者をMVPにたたえるところを、信長は「敵が休憩している」という情報を持ってきた 見張り役に1番の褒美を与えた  と記録されています。

 

ゴールを決めた人はなくて情報を持ってきた人に褒美を与えたんだね。

 
 

このことから信長が何を大切にしていたかが見えてくるよね。

 

比叡山・延暦寺の焼き討ち

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信長の残虐さが垣間見えるのがこの 「比叡山・延暦寺の焼き討ち」です。 

今でこそ神社やお寺は街にひっそりと溶け込んでいますが、戦国時代では天皇や大名も口出しできないほど 権力を持っていた一大宗教勢力でした。 

そして彼らはキリスト教を保護する 織田信長を敵対し何度も一揆をおこしていました。 

信長はこういった強大な 仏教勢力を徹底的に弾圧します。 

比叡山延暦寺の焼き討ちは女性や子供関係なく首を切るように命じた信長の 「残虐さ」を表す事件として語られています。 

 

これってちょっとやり過ぎじゃない?恨みかいそう…

 
 

信長のこの徹底した破壊は良くも悪くも周りに大きな影響を与えたんだ。

 

長篠の戦で武田家に勝利

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絵画における長篠合戦

長篠の戦は、長野や静岡を治める大名(風林火山で有名な)武田信玄の息子、武田勝頼を倒した戦いとして 信長史上有名な戦のひとつです。 

絵画にあるように、馬の侵入を防ぐ馬防柵(ばぼうさく)を構え、ポルトガルから伝わってきたばかりの 最新武器「鉄砲」を駆使して闘いました。 

当時武田軍は 戦国最強の騎馬隊。 

「負け知らず」でその名をとどろかせていましたが、鉄砲の前ではその戦力もむなしく 織田軍に敗れてしまいました。 

 

武士たちを鉄砲でうつのはなんだか卑怯な感じだなぁ

 
 

信長が鉄砲を使いだしたことで日本の戦をガラリとかえていったんだ。

 

織田信長から学ぶ破壊力

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目的のためなら どんなものでも徹底的に破壊する。 

これが織田信長のモットーであり、ルールでもありました。

 伝統や古い習慣をとことん破壊していく  彼のこの強引なスタイルは、まるで少年漫画の主人公的キャラクターのようで、現状維持が得意な 日本のサラリーマンが憧れてしまう  というのもなんだか納得できますよね。

古い身分制度を徹底的に破壊

おめでとう, ジョイントベンチャー, チームワーク

織田信長は徹底的な実力主義者であり、現実主義者であるという点です。

 目に見えないものを嫌い  古くからある 伝統やつまらない習慣を嫌いました。 

当時の日本は身分制度や肩書で人の価値が決まる時代。

生まれ次第で人の一生が決まってしまうことが当たり前の時代でした。

信長はそんな身分制度を破壊し、 立場や組織、肩書にとらわれず、仕事のできる人にできることをやらせました。 

信長の家臣、 豊臣秀吉(とよとみひでよし)  は信長のぞうり持ちという底辺の立場から、 信長に実力を認められて大出世を果たした一人です。 

信長は戦で負けて土地を追いやられた 流浪人たちを束ね兵力にしたり  、今でいう派遣社員のような足軽と呼ばれる人たちを お金で雇い戦に参加  させたりしました。

身分が低くても頭がよく実力がある人を積極的に自分のそばにおき、 最強のメンバーでもって勝負に出たのです。 

これは 聖徳太子(しょうとくたいし)  も取り入れた方法ですね。

使える!処世術
部署や組織、年齢や性別に関係なく、それぞれの分野に特化したその道のプロをそばに置こう。

堕落した宗教を破壊

たき火, ホット, 火
 目に見えるものしか信じないリアリスト  だった彼は、皆が盲目的に信じ込んでいた仏教を否定しました。

国の混乱をいいことに、神様を利用して民衆から金と名声を集め力をつけていた宗教集団が彼には許せなかったんでしょう。

それと同時に信長は宗教の底知れぬ力を理解していました。

だからこそ ビジネスライクにキリスト教を受け入れ、その引き換えに鉄砲を大量に輸入したんです。 

使える!処世術
皆が妄信することを疑おう。そしてドライに利用してみよう。

大胆なのは情報を持っていたから

アウトライン, インターネット, カメラ

大胆な行動力で知られる織田信長ですが、豪快な行動を裏付けていたのは彼のストイックなほどの 情報収集能力があったからこそできたことでした。 

長篠の戦いでは鉄砲こそ注目されていますが、実は事前に「敵の中に裏切り者が出た」という内容の 偽の手紙  を書き、敵を混乱させたこともこの戦での勝敗を分けたといわれています。

目的(勝利)のためなら、どんな姑息なやり方でも手段を択ばない。彼は 戦では情報が制することを誰よりも知っていたといわれています。 

使える!処世術
常にアンテナを張っておこう。 情報通の人とお酒を飲んだり、派遣さんから聞き出したりして常に最新の情報を握っておこう。 もちろん自分の情報は漏らしてはいけません。

本能寺の変で自害?

織田信長は天下統一を目指し、部下たちの軍を全国に派遣して戦わせていました。

自らも戦場へ向かう途中、いつも通り京都にある本能寺(ほんのうじ:当時はホテルのように使っていた)でひと休みしていたところ、なんと岡山県に向かうはずであった部下の一人の 明智光秀(あけちみつひで)  が本能寺に軍を連れて押しかけ、 信長は燃え盛る本能寺で自害させられてしまったのです。 

織田信長を暗殺した部下の明智光秀
 「敵は(岡山ではなく)本能寺にあり」  と言って明智が自分の兵を京都へUターンさせたこのセリフはとても有名ですね。

この「本能寺の変」は 日本史史上最大のミステリー  と言われていて、今でも誰が明智のバックにいたのか、本当の黒幕は誰だったのかについて、50を超える説があるといわれています。

いかがでしたでしょうか?

織田信長から学べることはまだまだたくさん。ぜひ参考にしてみてください。


織田信長からもっと学ぼう

戦国時代の武将、織田信長はいかに部下を採用、育成し、最強軍団を作ることができたのかが書かれています。

日本のビジネスマンよ、織田信長に学べ! 戦国時代一の切れ者、織田信長が現代に蘇り、悩めるビジネスマンたちの為に経営塾を開いた。信長の生き方、戦い方に、動乱の世を勝ち抜いていく方法を学ぶ。(amazonより)

合わせて読みたい

石田三成から学ぶ構想力

偉人と崇められる人は私達と何が違うんでしょうか?
深堀りしてみると学べることはたくさん。
このブログではそんな偉人たちから学ぶ処世術をご紹介します。

天下分け目の関ヶ原で西軍の総大将として東軍徳川家康(とくがわいえやす)軍に敗れたことで知られる 石田三成(いしだみつなり)。 

今回は秀吉の右腕、石田三成!

うーん、超地味な印象しかないなぁ

歴史とは常に ”勝者”の歴史と言われていることもあり、関ヶ原で負けたことが理由で  石田三成は後世にわたってよい評判がない  可愛そうな武将です。

今日はそんな 石田三成の成功と失敗から学びたいと思います。 

そう、三成からは学ぶことがたくさんあるんだ。

石田三成のスゴイところ

White Petaled Flowers

頭がいいだけで戦では弱い、おまけに人望がなくて最後は裏切られて無念の死を遂げる、、、名だたる武将の影で 石田三成はそんなネガティブなイメージがつけられがちです。 

一方で石田三成は とても優秀な人としても知られています。 

石田三成がいたからこそ「太閤検地」や「刀狩り」など豊臣秀吉の政治は支えられていたといっても過言ではありません。

三成ってすごいじゃん!

秀吉が認めた三成の才能

織田信長同様、部下は身分ではなく「実力主義」の秀吉

人たらしと言われる豊臣秀吉に気に入られ最後まで そばに置かれたのが石田三成でした。 

当時は 戦で勝利を収めることが出世の条件  だったのにもかかわらず、 戦が苦手  で 武功を上げることができなかった三成を 秀吉はなぜ評価し続けたんでしょうか。 

合わせて読みたい:豊臣秀吉に学ぶ成り上がり力

三成は戦は苦手でも、 頭がよかった  と言われています。

 細かい計算やシステム作りが得意  だったことを秀吉に買われ、 太閤検地など全国的な統治システムを作り上げました。 

また、それまで土地によってバラバラだったモノの単位を統一し日本の商業を円滑にすすめさせたのも三成の功績です。

戦がすべての戦国時代に、頭脳でのし上がった人だったんだね。

褒美を断ってまで国に尽くした

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そんな優秀な部下三成に対して、秀吉は 「でかしたぞ、土地をやろう」  といって九州の土地をくれようとしますが、 三成はまさかのお断りしちゃうんです。 

当時は 任された土地の広さこそが武士の権力に直結  するのにもかかわらず、三成は「僕が幕府からいなくなれば国を整備する人がいなくなってしまうから」と、所領よりも国の整備を優先してしまうほど、 誠実に日本の未来を考えていた人だったんです。 

もー、ちゃっかりもらっとけばよかったのにー!

あの徳川家康が恐れた三成の知恵

徳川家康にとっては織田信長のぞうりもちからいきなり出世してきた成り上がりの 豊臣秀吉は目の上のたんこぶのような存在  でした。

ただそれ以上に家康が恐れたと言われていたのが、その秀吉の家臣で 頭の良い石田三成の存在でした。 

豊臣秀吉の死後 「俺のターン!」と言わんばかりに  我が物顔で政治の権力を欲しいものにしていた家康  に対し、石田三成は「このままでは大切に守ってきた豊臣政権が奪われてしまう…!」という危機感をもとに、家康から豊臣秀頼(豊臣秀吉の子ども)を守るという大義名分によって、家康に不満を抱く各地の大名たちに手紙を送り、 「秀吉さんの恩義を今返すときです」と多くの兵を味方に付けることに成功しました。 

それにビビった家康も同じように必死に裏で動き、諸大名たちと密約を交わしました。 「三成の味方にならなければ、あの土地あげるよ」  と利益をちらつかせることでたくさんの武将を味方につけてしまったのです。

結果はみなさんもご存じのとおり、三成の応援に来てくれるはずだった毛利軍が家康と密約を交わしていたため、応戦してくれず、 三成率いる西軍はあっという間に総崩れとなりました。 

人の心、測りがたし。

石田三成に学ぶ構想力

豊臣家のために一緒に戦おうと言ってくれた人たちに次々と裏切られ、 豊臣家への忠誠よりも現実的な利に走る人のもろさを嘆いて  三成が漏らした言葉です。

Person Using Laptop Computer on Brown Wooden Table

三成は 戦のない太平の世  にするために、秀吉天下統一の後必死になって 国をまとめる仕組みづくりに力を注ぎました。 

大阪の陣でも、関ヶ原の戦いでも、 権力が欲しかったのではなく  ただ 「豊臣家を守るために」  必死になって最後まで戦った家臣でした。

どれもこれも、すべてはただまっすぐに、 日本の未来を構想していたからこそ。 

ただ、褒美を断ってしまうほどの三成には、 利益のためなら人をも裏切る諸大名たちの気持ちは到底理解できず  、そういった「人の心」を測ることに関してまでは読むことができなかった。

 まっすぐさがあだになった。 

それが敗戦の原因と言われています。

人情だけではうまくはいかない

Eight Person Huddling

石田三成の失敗からもたくさん学ぶことがあります。

武士の世界はbackground義理人情を重んじる文化がありますが、このころからもう権力者間の裏切りが定番になってきますね。[/su_highlight]

background関ヶ原の戦いが歴史に残る戦い[/su_highlight] なのは、日本中の大名軍が戦ったこともありますが、数として有利だった三成の軍が負けてしまったという逆転劇と、backgroundそれが裏切りにまみれた戦いだったということが言えると思います。[/su_highlight]

人を信じることは大切ですが、信じ「きる」ことは利口とは言えないbackground[/su_highlight] ことが石田三成の失敗から学べます。

使える!処世術
大切なのは、信じられる仲間をつくることですね。
でもここぞという正念場ではその仲間たちを100%信頼してはいけません。
突然会社を辞める人もいれば、陰であなたの不平不満を言ってる人もいることを意識しておきましょう。

秀才ぶりは隠しておく

Man Laughing Beside Computer Monitor

 平安時代の菅原道真(すがわらのみちざね)  からも学べますが、やはり「秀才」タイプでものごとをハッキリ指摘してしまう人は鼻につくため、上司に気に入られたとしても、その後ろ盾がなくなってしまえば たちまち仲間に足を引っ張られてしまいます。 

能ある鷹は爪を隠す

とはよくできた言葉で。

ただ誠実に国の未来を考えていたとしても、その頭の良さやコミュニケーション下手な性格から、「あいつなんかムカつくんだよな」「頭がいいからなんか企んでそうなんだよな」と 自然と敵を作ってしまい、仲間から裏切られてしまいます。 

使える!処世術
たとえ優秀だとしても、その一面をみせるのはあなたを評価する上司の前だけにしておきましょう。
仲間や先輩の前ではあくまでも何も知らないバカを演じていた方が足を引っ張られることはありません。

いかがでしたでしょうか?

三成から学べることはまだまだたくさん。ぜひ参考にしてみてください。

なんだかかわいそうな人だなぁ

どれだけの秀才でも世の中が受け入れなければつらい運命をたどることになる。
これっていつの時代も変わらないきがするよ。

石田三成からもっと学ぼう

主家滅亡の危機!!「義」に生きた武将石田治部少輔三成は、家康を打倒するため立ちあがった。成功するかにみえた緻密周到な作戦は、なぜ、破綻したのか―。

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豊臣秀吉から学ぶ成り上がり力

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今日はこの人から学びます

偉人と崇められる人は私達と何が違うんでしょうか?
深堀りしてみると学べることはたくさん。
このブログではそんな偉人たちから学ぶ処世術をご紹介します。

豊臣秀吉のすごいところ

 戦国イチの成り上がり  で知られる豊臣秀吉(とよとみひでよし)。

農民の生まれから天下人へと上り詰めた秀吉から学ぶことは現代を生きる私たちでも 学ぶところがたくさんあります。 

今日は豊臣秀吉だ!楽しいぞー!

でた!おさるさん!

ニッポンイチの成り上がり

Silhouette of Man Raising His Hands

秀吉は愛知県の農民の生まれながら、同じく愛知県尾張地方を治める織田信長に遣える 家来のひとりでした。 

上司の信長からは 「サル」や「ハゲネズミ」  等と言われながらも他の部下たちにはない泥臭さや人当たりの良さ、命を懸けて信長に遣える忠誠心が認められ 目まぐるしい早さで出世していきます。 

信長の死後には朝廷(天皇)から天皇を補佐する関白(かんぱく)になり上がったことから、 ”日本一の成り上がり”と語り継がれています。 

大阪城は秀吉が建てた

Close Up Photography of Cherry Blossom Tree

信長の死後、天下統一を進めた秀吉は大阪に城を建設します。

  それが今にも残る「大阪城」。  その大きさは今の姿の何倍もあったと言われていて、当時では城下町の規模も含めて   世界一の規模だったようです。 

刀狩令を出したのも秀吉

「刀 画像 素材 フリー」の画像検索結果

戦国時代は下剋上の時代。秀吉は農民から成り上がり天下を統一したことから、自分と同じように農民たちが力を付けないために   刀を取り上げたことでも知られています。  

そんな秀吉は   どうやって成り上がったんでしょうか?  

豊臣秀吉に学ぶ成り上がり力

天下人とは程遠い底辺の身分から秀吉はどうやって日本を統一するまでのキングに成り上がったのか。

  彼の残した格言や行動からその処世術を学んでみよう。  

成り上がるにはまずボスに尽くすこと

People Shaking Hands

秀吉がまだ信長のぞうり持ち(今でいう社長のカバン持ち)だったころ、   寒い冬に信長のぞうりを懐に入れて温めた   というのは有名な秀吉エピソードですね。

  上司のためなら自分のことなど後回し。  

そんな姿を信長に見せつけることで信頼を少しずつ勝ち取っていきました。

使える!処世術
自分を可愛がってくれる人、自分の上司には徹底的に忠実な部下になろう。
その人に頼まれたことはどんな時でも最優先に手を付けよう。

成り上がるには自己アピールすること

People in a Mashroom 6 Conference Room

どれだけ気遣い上手でも、底辺から成り上がるには相当強烈な自己アピールをしなければそもそもリーダーに注目してもらい、 出世の鍵となるチャンスを得なければなりません。 

いつも前に出ることがよい。そして戦のときでも先駆けるのだ。

秀吉の格言

秀吉はそんなチャンスを手にするために、自分の低い身分を顧みず、難しい戦の作戦を立てているときも 「ぼくにはできる!やらせてください」と 意見を言いました。  

信長からはいつも「ですぎじゃ!」と怒られ、皆から笑われからかわれても、いつか成り上がるという夢のために、 場違いと思われながらも自己アピールをし続けたんです。 

使える!処世術
どんな時でもアピールをしよう。
周りの人たちに嫌われることを気にしていてはほかの人と同じです。

成り上がるには相手を油断させること

Group of People Having Fun Together Under the Sun

 敵をつくらないこと  も成り上がる過程では大切です。

平安時代、賢いことが認められ急速に出世したことが原因で、ライバルたちから妬まれて無実の罪を着せられ島流しにあった菅原道真(すがわらのみちざね)に学べるように、 成り上がること=誰かの嫉妬はつきものです。 

勇ましく人から恐れられるような人物は、優れた武将とは言えない。優れた武将とは、思いやりがあり人から慕われる人物だ。

敵を絶滅させる信長のやり方に対しての秀吉の言葉

秀吉はライバルにあたる信長のエリート部下たちに恨まれないように、 自分のことを「サル」と言い、田舎者のバカを演じて見せました。 

また貢物、宴会での接待を欠かさず、自分の夢を熱く語ることで敵をも味方につけてしまいました。

使える!処世術
スマートすぎると警戒されてしまうので「あいつはバカだから大丈夫」と思わせよう。
敵になりそうな人とはお酒を酌み交わし懐に入ろう。

いかがでしたでしょうか?

秀吉から学べることはまだまだたくさん。ぜひ参考にしてみてください。

豊臣秀吉からもっと学ぼう

織田信長の上洛から二〇年、豊臣秀吉により天下は統一された。集権化や実力主義を推進した信長と秀吉の政策はまさに「革命」であり、他の戦国武将と一線を画していたのである。本書はさらに、足利と織田、そして織田と豊臣の各政権が併存したことを指摘しつつ、軍事革命にともなうスペイン・ポルトガルの東アジア進出といった世界史的視野からも戦国日本を捉え直す。旧来のイメージを大胆に覆し、「革命」の本質に迫る。

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