賢者は歴史に学ぶらしい

ども!歴史が苦手なあすかです。

はじめまして、歴史大好きなはじめと申します。

このブログの著者は一部上場企業で働くOLです。

社会人になって改めて歴史を振り返ると、   驚くほど日常に役立つヒントがちりばめられていることに気づきました。 

どうしてもっと学生のころにこのオモシロさに気づけなかったんだろう…

そう後悔しつつも、   もう一度楽しく学びなおしています。  

働く皆さんの役に立てるような処世術を、

何でも知っている歴史博士の   はじめくんと一緒に紹介していこうと思います。  

偉人から学ぼう

織田信長から学ぶ破壊力

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今日はこの人から学びます。

室町幕府を倒幕し、愛知県から天下統一の野望を抱いた日本史上もっとも強烈なリーダー   織田信長(おだのぶなが)。  

今回はそんな織田信長から   現状を打破する「破壊力」   を学びたいと思います。

ついに来ました!織田信長!

あー!ホトトギス殺しちゃう人でしょー!

(んー間違ってはない…)

そう、日本人の好きな戦国武将No.1である織田信長は中世の日本を近世へと転換させた   「改革者」として有名。  

古い体制をことごとく破壊し、戦国の世を束ね、「天下統一」を夢見たリーダーだ。

織田信長はココがすごい

ガイダンス, グローブ, ナビゲーション
外国文化を積極的に取り入れ日本を中世から近世にシフトさせた
身分や肩書にとらわれない実力主義者
戦は武力ではなく情報戦ということを知っていた
身分や肩書にとらわれない実力主義者
誰でも扱える鉄砲を駆使してそれまでの戦を変えた
関所や通行税を撤廃し楽市楽座を実施し経済を活性化させた
政治と宗教を分断し、比叡山を焼き討ちにした

そんな信長の武勇伝を紹介しよう。

桶狭間の戦いで勝利

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「桶狭間今川義元血戦 」中心にいるのが隙を突かれて慌てる今川義元です

桶狭間の戦いは当時東海地方を牛耳っていた今川義元に 「桶狭間の戦い」の勝利が信長を一躍有名にしたデビュー戦。 

敵の今川軍に対して織田軍は1/10の兵力しかなかったようですが、今川軍が 休憩している隙をついて攻め込むという独特の手法  が有名ですね。

この戦のあとにとった織田信長の行動も有名です。戦が終わると、活躍した武士に褒美を与える習慣があります。

普通は敵の首を勝ち取った者をMVPにたたえるところを、信長は「敵が休憩している」という情報を持ってきた 見張り役に1番の褒美を与えた  と記録されています。

ゴールを決めた人はなくて情報を持ってきた人に褒美を与えたんだね。

このことから信長が何を大切にしていたかが見えてくるよね。

比叡山・延暦寺の焼き討ち

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信長の残虐さが垣間見えるのがこの 「比叡山・延暦寺の焼き討ち」です。 

今でこそ神社やお寺は街にひっそりと溶け込んでいますが、戦国時代では天皇や大名も口出しできないほど 権力を持っていた一大宗教勢力でした。 

そして彼らはキリスト教を保護する 織田信長を敵対し何度も一揆をおこしていました。 

信長はこういった強大な 仏教勢力を徹底的に弾圧します。 

比叡山延暦寺の焼き討ちは女性や子供関係なく首を切るように命じた信長の 「残虐さ」を表す事件として語られています。 

これってちょっとやり過ぎじゃない?恨みかいそう…

信長のこの徹底した破壊は良くも悪くも周りに大きな影響を与えたんだ。

長篠の戦で武田家に勝利

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絵画における長篠合戦

長篠の戦は、長野や静岡を治める大名(風林火山で有名な)武田信玄の息子、武田勝頼を倒した戦いとして 信長史上有名な戦のひとつです。 

絵画にあるように、馬の侵入を防ぐ馬防柵(ばぼうさく)を構え、ポルトガルから伝わってきたばかりの 最新武器「鉄砲」を駆使して闘いました。 

当時武田軍は 戦国最強の騎馬隊。 

「負け知らず」でその名をとどろかせていましたが、鉄砲の前ではその戦力もむなしく 織田軍に敗れてしまいました。 

武士たちを鉄砲でうつのはなんだか卑怯な感じだなぁ

信長が鉄砲を使いだしたことで日本の戦をガラリとかえていったんだ。


織田信長から学ぶ破壊力

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目的のためなら どんなものでも徹底的に破壊する。 

これが織田信長のモットーであり、ルールでもありました。

 伝統や古い習慣をとことん破壊していく  彼のこの強引なスタイルは、まるで少年漫画の主人公的キャラクターのようで、現状維持が得意な 日本のサラリーマンが憧れてしまう  というのもなんだか納得できますよね。

古い身分制度を徹底的に破壊

おめでとう, ジョイントベンチャー, チームワーク

織田信長は徹底的な実力主義者であり、現実主義者であるという点です。

 目に見えないものを嫌い  古くからある 伝統やつまらない習慣を嫌いました。 

当時の日本は身分制度や肩書で人の価値が決まる時代。

生まれ次第で人の一生が決まってしまうことが当たり前の時代でした。

信長はそんな身分制度を破壊し、 立場や組織、肩書にとらわれず、仕事のできる人にできることをやらせました。 

信長の家臣、 豊臣秀吉(とよとみひでよし)  は信長のぞうり持ちという底辺の立場から、 信長に実力を認められて大出世を果たした一人です。 

合わせて読みたい:豊臣秀吉に学ぶ成り上がり力

信長は戦で負けて土地を追いやられた 流浪人たちを束ね兵力にしたり  、今でいう派遣社員のような足軽と呼ばれる人たちを お金で雇い戦に参加  させたりしました。

身分が低くても頭がよく実力がある人を積極的に自分のそばにおき、 最強のメンバーでもって勝負に出たのです。 

これは 聖徳太子(しょうとくたいし)  も取り入れた方法ですね。

合わせて読みたい:聖徳太子に学ぶ組織力

使える!処世術
部署や組織、年齢や性別に関係なく、それぞれの分野に特化したその道のプロをそばに置こう。

堕落した宗教を破壊

たき火, ホット, 火
 目に見えるものしか信じないリアリスト  だった彼は、皆が盲目的に信じ込んでいた仏教を否定しました。

国の混乱をいいことに、神様を利用して民衆から金と名声を集め力をつけていた宗教集団が彼には許せなかったんでしょう。

それと同時に信長は宗教の底知れぬ力を理解していました。

だからこそ ビジネスライクにキリスト教を受け入れ、その引き換えに鉄砲を大量に輸入したんです。 

使える!処世術
皆が妄信することを疑おう。そしてドライに利用してみよう。

大胆なのは情報を持っていたから

アウトライン, インターネット, カメラ

大胆な行動力で知られる織田信長ですが、豪快な行動を裏付けていたのは彼のストイックなほどの 情報収集能力があったからこそできたことでした。 

長篠の戦いでは鉄砲こそ注目されていますが、実は事前に「敵の中に裏切り者が出た」という内容の 偽の手紙  を書き、敵を混乱させたこともこの戦での勝敗を分けたといわれています。

目的(勝利)のためなら、どんな姑息なやり方でも手段を択ばない。彼は 戦では情報が制することを誰よりも知っていたといわれています。 

使える!処世術
常にアンテナを張っておこう。
情報通の人とお酒を飲んだり、派遣さんから聞き出したりして常に最新の情報を握っておこう。
もちろん自分の情報は漏らしてはいけません。

本能寺の変で自害?

織田信長は天下統一を目指し、部下たちの軍を全国に派遣して戦わせていました。

自らも戦場へ向かう途中、いつも通り京都にある本能寺(ほんのうじ:当時はホテルのように使っていた)でひと休みしていたところ、なんと岡山県に向かうはずであった部下の一人の 明智光秀(あけちみつひで)  が本能寺に軍を連れて押しかけ、 信長は燃え盛る本能寺で自害させられてしまったのです。 

織田信長を暗殺した部下の明智光秀
 「敵は(岡山ではなく)本能寺にあり」  と言って明智が自分の兵を京都へUターンさせたこのセリフはとても有名ですね。

この「本能寺の変」は 日本史史上最大のミステリー  と言われていて、今でも誰が明智のバックにいたのか、本当の黒幕は誰だったのかについて、50を超える説があるといわれています。

いかがでしたでしょうか?

織田信長から学べることはまだまだたくさん。ぜひ参考にしてみてください。


織田信長からもっと学ぼう

戦国時代の武将、織田信長はいかに部下を採用、育成し、最強軍団を作ることができたのかが書かれています。

日本のビジネスマンよ、織田信長に学べ! 戦国時代一の切れ者、織田信長が現代に蘇り、悩めるビジネスマンたちの為に経営塾を開いた。信長の生き方、戦い方に、動乱の世を勝ち抜いていく方法を学ぶ。(amazonより)

合わせて読みたい

勝海舟から学ぶ戦略的行動力

江戸時代活躍し明治維新の影の立役者として知られる勝海舟(かつかいしゅう)。

今回はそんな勝海舟から戦略的な行動力を学びたいと思います。

さぁ!今日は勝海舟先生だ!

カツカイシュウ?

そう、明治維新の影のプロデューサーともいえる人だよ!

そう、明治維新というと坂本龍馬(さかもとりょうま)や西郷隆盛(さいごうたかもり)、大久保利通(おおくぼとしみち)たちが注目を浴びていますが、

勝海舟がいなければこの革命はなかったといっていいほど 日本の歴史上もっとも偉大な偉人のひとり、それが勝海舟なんです。 

勝海舟はココがすごい

ガイダンス, グローブ, ナビゲーション

外国文化を積極的に取り入れ日本を中世から近世にシフトさせた

外交についての意見書を何度も幕府に送り幕臣(役人)になった

日本の代表者として福沢諭吉とともにアメリカへ渡り民衆のための政治を学んだ

軍艦奉行として外国に負けない海軍をつくるため努力した

坂本龍馬を弟子として指導した

江戸幕府の軍事総裁(防衛大臣)になった

幕府を攻撃しようとする西郷隆盛(薩摩藩)と会談し江戸無血開城を成功させ150万人の命を救った

外国に学び日本の未来を考えた男

おとこ, くつろぎ, アダルト

勝海舟はもともと江戸幕府に従える幕臣(ばくしん:政府に仕える公務員のようなもの)の家に生まれました。

若いころから借金をしてまで必死でオランダ語の辞書を手に入れ、独学で蘭学(らんがく:オランダの政治や経済そして軍事のことなど)を勉強した勉強熱心な青年でした。

外国のことを勉強していくうちに、 海外にとても興味を持ち、次第に日本の在り方に疑問を持つようになりました。 

当時の日本はペリーの黒船来航で混乱し、 日本の中心である江戸幕府はもはや外交をどう進めるべきかわからなくなっていた頃。 

セーリング, ボート, マスト

勝海舟はそんな幕府を見かねて、何度も「意見書」を出し、 「日本は外国と同じように強い海軍を持ち、外国と対等に渡り合える強い国になるべきだ」  と訴えました。

勝海舟の意見書が幕府に届いたことで、彼の能力が認められ、勝海舟幕臣(政府に使える役人)となり アメリカにわたることになりました。 

勝海舟の熱い思いが幕府に届いたんだね。

勝海舟って熱い男なんだね!

外国で”民衆のための”政治を学んだ

Person Showing Usa Flag

勝海舟は先進国の軍事力や、政治、経済の発展に 衝撃を受けました。 

アメリカでは国民の投票で国のリーダー(大統領)が選ばれていることも、身分や生まれで世襲されていくことが当然だった 当時の日本人には目からうろこだったのです。 

日本に帰国した勝海舟は幕府の政治を担う重役に渡米の感想を聞かれ、こう報告したと言われています。

アメリカでは、政府でも民間でも、およそ上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。
この点ばかりは全く我が国と反対のように思えます。

わーこれは喧嘩うってるっしょw

勝海舟は異国の地で自分の国のことを考えました。

今の日本は各藩の利権や徳川家の存続なんていう わー!これは喧嘩売ってるw 「私利私欲」ばかりを気にしている。[/su_highlight]

そんな小さなことではなくもっと大きな わー!これは喧嘩売ってるw 「公(おおやけ)」の目線で日本を考えていかなければならない[/su_highlight] と決意したのです。

坂本龍馬を育てた師匠

ペリーの黒船来航をきっかけに、日本では外国に対する姿勢をめぐり考え方が真っ二つに分かれ、それが理由で 日本の中での内紛がたえませんでした。 

とくに西日本の各藩(外国なんて追い払え派)と江戸幕府(怖いから外国の言いなりになっとこう派)はとても仲が悪く、殺し合いのバトルが続いていました。

そんな中、坂本龍馬もまた外国に対して弱腰な幕府に対して物申すため、故郷(高知)を捨てて幕府の軍艦を指揮していた幕臣、 勝海舟に会いに行きました。 

外国の言いなりになる幕府も、外国の船をやっつけようとしないあなたの海軍も、みんな腰抜けじゃ!

今の日本のままでは外国と戦っても負ける。島国の日本が勝つには強い海軍が必要だ。
違うかい?

そ、そうじゃが…?

強い海軍をつくるには金が要る。金を作るには貿易が必要だ。
今の日本はつまらん内紛なんかしてる場合じゃない。
今こそ一致団結して、外国と貿易をして稼がないといけない時なんだ。

(なるほど!)…勝先生!ついていきます!

幕府を痛烈に批判する坂本竜馬を諭し、今こそ 外国に対し強い日本にならなくてはならないと説得しました。 

そんな勝海舟に感動した龍馬は彼の弟子として 勝海舟の下で学ぶことを決めました。 

江戸無血開城を成功させた

西郷隆盛と勝海舟

外国に対する国のスタイルで日本中が混乱していた頃、勝海舟は幕府の代表として長州藩(山口県)・薩摩藩(鹿児島県)・会津藩(福島県)の アンチ幕府勢力の人たちとの交渉役を任されていました。 

当時の幕府は、日本に不利な条件でアメリカと条約を結んでしまったり、それに反対した勢力を暗殺するなど、酷い政治をしていたことから民衆からも嫌われ、 時代は新しいリーダーを求めていました。 

そんな時代も後押しして、西郷隆盛たち倒幕派(アンチ幕府)が江戸城を攻めようとしたとき、勝海舟は西郷隆盛と会談し、 戦わずして城を明け渡すことを約束しました。 

幕府軍は戦うことはできる。
ただ戦えば民衆が苦しみ、外国が攻めてきて日本は植民地になってしまう。

これにより勝海舟は自ら仕えた江戸幕府を終わらせ、自らの上司である徳川慶喜(よしのぶ)を江戸から静岡へ移し、 江戸時代を終わらせたのでした。

この行動は  恥知らずで腰抜けな「不忠者」としてバッシング  を受けましたが、この時の勝海舟の決断がなければ、150万人が暮らす江戸は炎の海となり、民衆たちが血を流す結果になっていました。 勝海舟の決断で民衆は救われたのです。 

負けて戦に勝つってことね。

その決断は当時の幕府にとってはすごいことだったんだ。


勝海舟から学ぶ現実的行動力

めがね, カレッジ, データ

勝海舟が必死に独学で蘭学を学び、オランダ語を話せるようになったことから、彼は外国のことを知ることができ、果ては幕府に能力を認められ 幕臣として働くことができました。 

そして日本を代表してアメリカへ渡り、誰よりも日本の未来を案じ、当時の日本にかけているものを正確に理解し、 特別な立場から日本の政治に意見することができる存在になれました。 

今の自分の環境に決して満足せずに、同僚や先輩・後輩、他部署やライバル企業にいたるまで、貪欲に学ぼうとする姿勢は結果的に、誰にも浮かばないアイデアや、誰も経験したことのないことを得ることができるため、 組織にとって必要な特別な人材になれます。 

使える!処世術
自分にしかできないことを見つけよう。
そしてその能力を今のチームや、会社、世の中のために発揮しよう。

理想のために現実を見る

ぼかし, ハンド, ルート

勝海舟は軍艦奉行として、外国に負けたくない!植民地なんかになるもんか!いつか対等に渡り合える強い日本を作るんだ!という   高い理想  を胸に、外国と仲良くする   現実的な道  を選びました。

まずは自分に足りないものを貪欲に学んでみよう。

その学びで得た意見があれば何度もなんども発信しよう。

すべては日本が外国に支配されないように 強い海軍を持つという目的  のために、海軍を養成する費用を捻出するために 外国との貿易を選んだのです。 

私たちは日常的にごく自然に目先の利益や勝敗にとらわれてしまいがちですが、勝海舟のように自分の 思い描いた理想のためにいたってドライで冷静に行動すること  こそが、もっと大きなリターンを得られるということを学ばなくてはいけません。

使える!処世術
恥ずかしがらずに、理想を語ろう。
そのあとに必ずどうすれば実現できるかをセットで語ろう。

私(自分)よりも公を重視する

おとこ, ほほえむ, アダルト

勝海舟がアメリカで学んだ民衆のための政治はまさにこれといえるでしょう。

勝海舟は私利私欲で腐敗した幕府を批判し、民衆を意識した政治こそが大切だと言い続けました。

彼のこの精神があったからこそ、自分たちの勝利や、名誉や、プライドなんかよりも、 日本の未来を優先できたからこそ、江戸無血開城は成功に終わったんだといえます。 

使える!処世術
自分の私利私欲より、チームや組織、会社の繁栄を考えよう。

やっぱり勝海舟先生はすごい人だ!

すごい!よく見たらイケメンだし好き!


いかがでしたでしょうか?

勝海舟から学べることはまだまだたくさん。

ぜひ参考にしてみてください。

勝海舟にもっと学ぼう

とっても読みやすく勝海舟という人がもっと身近に感じます。


人生に効く!! 幕末維新史を塗り替えた偉人、勝海舟の名言集。
初の現代語訳を含む、厳選された珠玉の言葉たちを収録。動乱の時代に勝ち続けるためのヒントが、きっと見つかります。(amazonより)

合わせて読みたい

石田三成から学ぶ構想力

偉人と崇められる人は私達と何が違うんでしょうか?
深堀りしてみると学べることはたくさん。
このブログではそんな 偉人たちから学ぶ処世術をご紹介します。  

天下分け目の関ヶ原で西軍の総大将として東軍徳川家康(とくがわいえやす)軍に敗れたことで知られる 石田三成(いしだみつなり)。 

今回は秀吉の右腕、石田三成!

うーん、超地味な印象しかないなぁ

歴史とは常に ”勝者”の歴史と言われていることもあり、関ヶ原で負けたことが理由で  石田三成は後世にわたってよい評判がない  可愛そうな武将です。

今日はそんな 石田三成の成功と失敗から学びたいと思います。 

そう、三成からは学ぶことがたくさんあるんだ。

石田三成のスゴイところ

White Petaled Flowers

頭がいいだけで戦では弱い、おまけに人望がなくて最後は裏切られて無念の死を遂げる、、、名だたる武将の影で 石田三成はそんなネガティブなイメージがつけられがちです。 

一方で石田三成は とても優秀な人としても知られています。 

石田三成がいたからこそ「太閤検地」や「刀狩り」など豊臣秀吉の政治は支えられていたといっても過言ではありません。

三成ってすごいじゃん!

秀吉が認めた三成の才能

織田信長同様、部下は身分ではなく「実力主義」の秀吉

人たらしと言われる豊臣秀吉に気に入られ最後まで そばに置かれたのが石田三成でした。 

当時は 戦で勝利を収めることが出世の条件  だったのにもかかわらず、 戦が苦手  で 武功を上げることができなかった三成を 秀吉はなぜ評価し続けたんでしょうか。 

合わせて読みたい:豊臣秀吉に学ぶ成り上がり力

三成は戦は苦手でも、 頭がよかった  と言われています。

 細かい計算やシステム作りが得意  だったことを秀吉に買われ、 太閤検地など全国的な統治システムを作り上げました。 

また、それまで土地によってバラバラだったモノの単位を統一し日本の商業を円滑にすすめさせたのも三成の功績です。

戦がすべての戦国時代に、頭脳でのし上がった人だったんだね。

褒美を断ってまで国に尽くした

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そんな優秀な部下三成に対して、秀吉は 「でかしたぞ、土地をやろう」  といって九州の土地をくれようとしますが、 三成はまさかのお断りしちゃうんです。 

当時は 任された土地の広さこそが武士の権力に直結  するのにもかかわらず、三成は「僕が幕府からいなくなれば国を整備する人がいなくなってしまうから」と、所領よりも国の整備を優先してしまうほど、 誠実に日本の未来を考えていた人だったんです。 

もー、ちゃっかりもらっとけばよかったのにー!

あの徳川家康が恐れた三成の知恵

徳川家康にとっては織田信長のぞうりもちからいきなり出世してきた成り上がりの 豊臣秀吉は目の上のたんこぶのような存在  でした。

ただそれ以上に家康が恐れたと言われていたのが、その秀吉の家臣で 頭の良い石田三成の存在でした。 

豊臣秀吉の死後 「俺のターン!」と言わんばかりに  我が物顔で政治の権力を欲しいものにしていた家康  に対し、石田三成は「このままでは大切に守ってきた豊臣政権が奪われてしまう…!」という危機感をもとに、家康から豊臣秀頼(豊臣秀吉の子ども)を守るという大義名分によって、家康に不満を抱く各地の大名たちに手紙を送り、 「秀吉さんの恩義を今返すときです」と多くの兵を味方に付けることに成功しました。 

それにビビった家康も同じように必死に裏で動き、諸大名たちと密約を交わしました。 「三成の味方にならなければ、あの土地あげるよ」  と利益をちらつかせることでたくさんの武将を味方につけてしまったのです。

結果はみなさんもご存じのとおり、三成の応援に来てくれるはずだった毛利軍が家康と密約を交わしていたため、応戦してくれず、 三成率いる西軍はあっという間に総崩れとなりました。 

人の心、測りがたし。

豊臣家のために一緒に戦おうと言ってくれた人たちに次々と裏切られ、 豊臣家への忠誠よりも現実的な利に走る人のもろさを嘆いて  三成が漏らした言葉です。

石田三成に学ぶ構想力

Person Using Laptop Computer on Brown Wooden Table

三成は 戦のない太平の世  にするために、秀吉天下統一の後必死になって 国をまとめる仕組みづくりに力を注ぎました。 

大阪の陣でも、関ヶ原の戦いでも、 権力が欲しかったのではなく  ただ 「豊臣家を守るために」  必死になって最後まで戦った家臣でした。

どれもこれも、すべてはただまっすぐに、 日本の未来を構想していたからこそ。 

ただ、褒美を断ってしまうほどの三成には、 利益のためなら人をも裏切る諸大名たちの気持ちは到底理解できず  、そういった「人の心」を測ることに関してまでは読むことができなかった。

 まっすぐさがあだになった。 

それが敗戦の原因と言われています。

人情だけではうまくはいかない

Eight Person Huddling

石田三成の失敗からもたくさん学ぶことがあります。

武士の世界はbackground義理人情を重んじる文化がありますが、このころからもう権力者間の裏切りが定番になってきますね。[/su_highlight]

background関ヶ原の戦いが歴史に残る戦い[/su_highlight] なのは、日本中の大名軍が戦ったこともありますが、数として有利だった三成の軍が負けてしまったという逆転劇と、backgroundそれが裏切りにまみれた戦いだったということが言えると思います。[/su_highlight]

人を信じることは大切ですが、信じ「きる」ことは利口とは言えないbackground[/su_highlight] ことが石田三成の失敗から学べます。

使える!処世術
大切なのは、信じられる仲間をつくることですね。
でもここぞという正念場ではその仲間たちを100%信頼してはいけません。
突然会社を辞める人もいれば、陰であなたの不平不満を言ってる人もいることを意識しておきましょう。

秀才ぶりは隠しておく

Man Laughing Beside Computer Monitor

 平安時代の菅原道真(すがわらのみちざね)  からも学べますが、やはり「秀才」タイプでものごとをハッキリ指摘してしまう人は鼻につくため、上司に気に入られたとしても、その後ろ盾がなくなってしまえば たちまち仲間に足を引っ張られてしまいます。 

能ある鷹は爪を隠す

とはよくできた言葉で。

ただ誠実に国の未来を考えていたとしても、その頭の良さやコミュニケーション下手な性格から、「あいつなんかムカつくんだよな」「頭がいいからなんか企んでそうなんだよな」と 自然と敵を作ってしまい、仲間から裏切られてしまいます。 

使える!処世術
たとえ優秀だとしても、その一面をみせるのはあなたを評価する上司の前だけにしておきましょう。
仲間や先輩の前ではあくまでも何も知らないバカを演じていた方が足を引っ張られることはありません。

いかがでしたでしょうか?

三成から学べることはまだまだたくさん。ぜひ参考にしてみてください。

なんだかかわいそうな人だなぁ

どれだけの秀才でも世の中が受け入れなければつらい運命をたどることになる。
これっていつの時代も変わらないきがするよ。

石田三成からもっと学ぼう

主家滅亡の危機!!「義」に生きた武将石田治部少輔三成は、家康を打倒するため立ちあがった。成功するかにみえた緻密周到な作戦は、なぜ、破綻したのか―。

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豊臣秀吉から学ぶ成り上がり力

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今日はこの人から学びます

偉人と崇められる人は私達と何が違うんでしょうか?
深堀りしてみると学べることはたくさん。
このブログではそんな 偉人たちから学ぶ処世術をご紹介します。  

豊臣秀吉のすごいところ

 戦国イチの成り上がり  で知られる豊臣秀吉(とよとみひでよし)。

農民の生まれから天下人へと上り詰めた秀吉から学ぶことは現代を生きる私たちでも 学ぶところがたくさんあります。 

今日は豊臣秀吉だ!楽しいぞー!

でた!おさるさん!

ニッポンイチの成り上がり

Silhouette of Man Raising His Hands

秀吉は愛知県の農民の生まれながら、同じく愛知県尾張地方を治める織田信長に遣える 家来のひとりでした。 

上司の信長からは 「サル」や「ハゲネズミ」  等と言われながらも他の部下たちにはない泥臭さや人当たりの良さ、命を懸けて信長に遣える忠誠心が認められ 目まぐるしい早さで出世していきます。 

信長の死後には朝廷(天皇)から天皇を補佐する関白(かんぱく)になり上がったことから、 ”日本一の成り上がり”と語り継がれています。 

大阪城は秀吉が建てた

Close Up Photography of Cherry Blossom Tree

信長の死後、天下統一を進めた秀吉は大阪に城を建設します。

  それが今にも残る「大阪城」。  その大きさは今の姿の何倍もあったと言われていて、当時では城下町の規模も含めて   世界一の規模だったようです。 

刀狩令を出したのも秀吉

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戦国時代は下剋上の時代。秀吉は農民から成り上がり天下を統一したことから、自分と同じように農民たちが力を付けないために   刀を取り上げたことでも知られています。  

そんな秀吉は   どうやって成り上がったんでしょうか?  

豊臣秀吉に学ぶ成り上がり力

天下人とは程遠い底辺の身分から秀吉はどうやって日本を統一するまでのキングに成り上がったのか。

  彼の残した格言や行動からその処世術を学んでみよう。  

成り上がるにはまずボスに尽くすこと

People Shaking Hands

秀吉がまだ信長のぞうり持ち(今でいう社長のカバン持ち)だったころ、   寒い冬に信長のぞうりを懐に入れて温めた   というのは有名な秀吉エピソードですね。

  上司のためなら自分のことなど後回し。  

そんな姿を信長に見せつけることで信頼を少しずつ勝ち取っていきました。

使える!処世術
自分を可愛がってくれる人、自分の上司には徹底的に忠実な部下になろう。
その人に頼まれたことはどんな時でも最優先に手を付けよう。

成り上がるには自己アピールすること

People in a Mashroom 6 Conference Room

どれだけ気遣い上手でも、底辺から成り上がるには相当強烈な自己アピールをしなければそもそもリーダーに注目してもらい、 出世の鍵となるチャンスを得なければなりません。 

いつも前に出ることがよい。そして戦のときでも先駆けるのだ。

秀吉の格言

秀吉はそんなチャンスを手にするために、自分の低い身分を顧みず、難しい戦の作戦を立てているときも 「ぼくにはできる!やらせてください」と 意見を言いました。  

信長からはいつも「ですぎじゃ!」と怒られ、皆から笑われからかわれても、いつか成り上がるという夢のために、 場違いと思われながらも自己アピールをし続けたんです。 

使える!処世術
どんな時でもアピールをしよう。
周りの人たちに嫌われることを気にしていてはほかの人と同じです。

成り上がるには相手を油断させること

Group of People Having Fun Together Under the Sun

 敵をつくらないこと  も成り上がる過程では大切です。

平安時代、賢いことが認められ急速に出世したことが原因で、ライバルたちから妬まれて無実の罪を着せられ島流しにあった菅原道真(すがわらのみちざね)に学べるように、 成り上がること=誰かの嫉妬はつきものです。 

勇ましく人から恐れられるような人物は、優れた武将とは言えない。優れた武将とは、思いやりがあり人から慕われる人物だ。

敵を絶滅させる信長のやり方に対しての秀吉の言葉

秀吉はライバルにあたる信長のエリート部下たちに恨まれないように、 自分のことを「サル」と言い、田舎者のバカを演じて見せました。 

また貢物、宴会での接待を欠かさず、自分の夢を熱く語ることで敵をも味方につけてしまいました。

使える!処世術
スマートすぎると警戒されてしまうので「あいつはバカだから大丈夫」と思わせよう。
敵になりそうな人とはお酒を酌み交わし懐に入ろう。

いかがでしたでしょうか?

秀吉から学べることはまだまだたくさん。ぜひ参考にしてみてください。

豊臣秀吉からもっと学ぼう

織田信長の上洛から二〇年、豊臣秀吉により天下は統一された。集権化や実力主義を推進した信長と秀吉の政策はまさに「革命」であり、他の戦国武将と一線を画していたのである。本書はさらに、足利と織田、そして織田と豊臣の各政権が併存したことを指摘しつつ、軍事革命にともなうスペイン・ポルトガルの東アジア進出といった世界史的視野からも戦国日本を捉え直す。旧来のイメージを大胆に覆し、「革命」の本質に迫る。

Amazonより

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北条政子から学ぶ演説力

NHK大河ドラマ「平清盛」北条政子役の杏さん

偉人と崇められる人は私達と何が違うんでしょうか?
深堀りしてみると学べることはたくさん。
このブログではそんな 偉人たちから学ぶ処世術をご紹介します。  

北条政子は鎌倉の教科書でもこの坊主姿の写真が印象的でしたね。  「尼将軍」として知られています。  

教科書でもこの坊主姿の写真が印象的でしたね。

一見おとなしそうに見える北条政子の印象ですが、なんのなんの。

その本性はとても勝気で、   男たちにも負けずを取らずのリーダーとしての才能がありました。  

今回はそんな”女将軍”こと北条政子からたくさんの武士たちを感動させ心を動かした   「演説力」を学ぼうと思います。  

北条政子のすごいところ

Woman Standing Near Plants

北条政子は源頼朝の妻として鎌倉幕府を守り抜いた   カリスマ女性リーダーとして歴史に名を残しています。  

夫の源頼朝の亡き後、頼朝に代わり、気性が荒くプライドの高い関東の武士たちを束ねて   鎌倉幕府の権威を保ちつづけることに成功しました。  

ある日朝廷が、政子含む北条家の権力に目をつけ、喧嘩を売ってきたことで始まった 「承久の乱」

この戦いで   政子は北条家を守るために朝廷と戦うことを決心します。  

「承久の乱」の画像検索結果

ちなみに朝廷に対して弓を引くなんてことは   後にも先にもこの戦いしかありません。  

武士たちは「朝廷に刃向うなんて怖い!無理!どうしよう…朝廷側につこうかな…」とおびえて悩んでいました。

政子はそんな危機を乗り越えるべく、   武士たちを集めて熱い演説をし、武士たちを鼓舞したと言われています。  

みなさん,心を一つにして聞いてください.
これは私の最後の言葉です.
頼朝様が武士の政権を創ってから後,あなた方の官位は上がり収入もずいぶん増えました.
平家に仕えていた時には裸足で京まで行っていたあなたたちでしたが,京都へ行って無理に働かされることもなく,幸福な生活をおくれるようになりました.それもこれもすべては頼朝様のお陰です.
そしてその恩は山よりも高く海よりも深いのです.
しかし今その恩を忘れ天皇や上皇をだまして、私たちを滅ぼそうとしている者たちがあらわれました。
名を惜しむものは藤原秀康・三浦胤義らを討ち取り、三代の将軍の恩に報いて欲しい
もしこの中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら,まずこの私を殺し,鎌倉中を焼きつくしてから京都へ行きなさい

政子によって熱い気持ちを取り戻した武士たちは、鎌倉で朝廷を迎え入れるだけの予定を変更し、   一気に京都まで攻め入り勝利することができまし  

北条政子から学ぶ演説力

Black Microphone

政子の演説はどうして   武士たちの心に刺さったんでしょうか?  

たった一人の女性の演説がどうして気難しいツワモノたちを突き動かし、「ご法度」とされる朝廷に向かい矢を放つような危険な戦に駆り立てたのでしょうか?

そこには北条政子の巧みな演説テクニックがあったからだといわれています。

総論賛成でみんなの心をつかむ

ぼかし, ぼやけて, スクリーンメッシュ

北条政子の前には何百もの所属の異なる関東武士たちが集まりました。

それぞれ守る土地も、立場も異なる気難しい人たちです。

そんな人たちを一つに束ねるには、まず、   誰もがYESとうなずく総論賛成を得ることが大切です。  

頼朝様が武士の政権を創ってから後,あなた方の官位は上がり収入もずいぶん増えました.

関東武士たちにとっての「総論賛成」は、今は亡きリーダー   源頼朝の存在でした。  

それぞれがいがみ合っていても、みな源頼朝のことを慕い、尊敬し、彼のためならなんでもやろうという情熱がありました。

北条政子は源頼朝の妻として、それが手に取るようにわかっていたため、この場で彼の名前をだし   あえて彼のことを引き合いに出したのです。  

使える!処世術
異なる意見を持つ人たちでもきっと同意する点はあるはずです。
「我々」「私たち」のような主語を多用して共感を得ましょう。
「わたしたちチームはこれまで一丸となって乗り越えてきました。だからこそ今期の業績も目標達成することができました!」

共通の傷に触れて皆の心をつかむ

アダルト, ストレス, ダーク

総論賛成で皆の心をつかんだ後は、目の前の意見の異なる人たちを、   ひとつにまとめることが大切です。  

そんな時有効なのが、   「共通の傷」に触れること。  

マーティン・ルーサー・キングJr.の有名なスピーチ”I have a Dream”でも同じ手法が使われていますね。

黒人たちが受けた様々な差別のこと。苦しかった毎日のこと。殺された仲間たちのこと。

共通の傷を負った人たちは、   その傷を負った者にしかわからない痛みを知っています。  

そしてその痛みを知っている人たちは互いの痛みが痛いほどわかるので、   自然と仲間意識が芽生えるのです。  

北条政子はそれをわかっていたからこそ、あえて自分たちが過去どんなつらい目にあっていたかを一度思い出させるために言及しました。

平家に仕えていた時には裸足で京まで行っていたあなたたちでした。

これまで平家に虐げられてきた自分たちのつらい過去を振り返り、   みんなを一つにまとめ上げることができたんです。  

使える!処世術
皆が共通に抱える傷に触れて共感を得ましょう。
「3年前の業績悪化で、私たちは大きな痛手を負いました。それでもここまでみんなで努力し、業績を上げることができました。」

課題をすり替えて皆の心をつかむ

お祝い, ぼかし, コンサート

皆を一致団結できたとしても、次にどういう行動を起こすかは、それぞれの意思で決まります。

皆の関心があること=   それはいつの時代も自分自身のことです。  

そのため選挙演説や街頭の広告には、いかに「課題」や「商品」を待ちゆく人の   自分ごと化させるか   という点が重要になってきます。

天皇や上皇をだまして、私たちを滅ぼそうとしている者たちがあらわれました。

北条政子は朝廷から目を付けられている北条家の危機を、   「鎌倉幕府そのものの危機」という一大事に巧みにすりかえて   、武士たちの心に訴えました。

使える!処世術
一見他人事に見える課題でも「自分事化」にすり替える方法を見つけましょう。
「この課題はAチームだけの問題ではなく、会社全体の問題です。私たち一人ひとりが真剣に考える必要があると思います。」

目的を与えることで皆の心をつかむ

ぼかし, アダルト, コンサート

どんな演説にも   必ず目的があります。  

選挙で自分に一票投じてもらいたいのか、商品を買ってもらいたいのか、SNSでいいね!をしてもらいたいのか。

だからこそ、聞き入る皆に   「どうしてほしいのか」をハッキリと伝えること   で目的は達成され、聞いているほうも気持ちよくその行動ができるんです。

単純なことですがこれってとても大切なことなんです。

普段のビジネスメールでもきちんと相手に目的を与えてあげて、「次に起こしてほしい行動」を示してあげられる人日々の仕事もスムーズにこなしています。

名を惜しむものは藤原秀康・三浦胤義らを討ち取り、三代の将軍の恩に報いて欲しい

北条政子の目的は関東の武士たちを朝廷と戦わせること。

だからこそ   明確に「こうしてほしい」と伝えていますね。  

使える!処世術
相手が一人でも複数でも、自分の気持ちを伝えるときは必ず相手にはどうしてほしいか、その目的とセットで伝えるようにしましょう。
「私はA案がいいと思います。〇〇や〇〇のような理由があるからです。だからこそみなさんにもA案をおしてほしいです。」

覚悟を見せて皆の心をつかむ

ぼかし, やさしい, アジアの女性

人の心に訴える演説をする人は必ず自信に満ち溢れていますね。

それは目の前の人たちの心をつかんで、行動してもらうために、自らが矢面に立ち声を張り上げるという   覚悟をしているからです。  

その覚悟を感じて、利き手も「あ、この人本気だな」「どうやら口だけじゃないな」と心を動かされるんです。

演説で大切なのは、自信をもって相手に訴えること、そしてその演説の言葉に責任をもつこと、   自分の覚悟を相手に伝えることです。  

もしこの中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら,まずこの私を殺し,鎌倉中を焼きつくしてから京都へ行きなさい

”俺の屍を超えてゆけ”というゲームがありましたが、要は北条政子も同じことを言っているんです。

  朝廷側につくならまず私を殺してからいけと。  

血の気が荒く上に深い武士たちは、これくらい極端な言葉をつかわないと女性に耳を傾けないとわかっていたんでしょう。

この北条政子の覚悟で武士たちは   一気に心をつかまれてしまいました。  

使える!処世術
ただ高いところからものをいうだけではなく、私は本気だという覚悟をハッキリと伝えることが大切です。
「このプロジェクトがうまくいかなければ、クビにしていただいて結構です!」

いかがでしたでしょうか?偉人から学べることはまだまだたくさん。

ぜひ他の記事も参考にしてみてくださいね。

北条政子にもっと学ぼう

とっても読みやすく北条政子という人がもっと身近に感じます。


源頼朝亡きあと、北条家の中心となって鎌倉幕府の実権を握ったが故に“尼将軍”と呼ばれ、日本史上稀代の鬼女と評価されることの多い北条政子。しかし、その実像は、流人でしかなかった頼朝を心から愛し駆け落ちまでして添い遂げ、頼朝が天下統一を果たしたときには自分を捨てて陰から支え、夫ばかりか四人の実子にもすべて先立たれるという悲劇を乗り越え、そして、頼朝の願いであった武士の功労が正しく評価される幕府を守らんがため心ならずも“龍”になることを余儀なくされた、運命に翻弄された心優しい女だった……。 (amazonより)

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源頼朝から学ぶハッタリ力

今日はこの人から学びます

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源頼朝のすごいところ

鎌倉時代に一躍日本を統治した「源氏」。

源氏の中で有名なのがそう、 源頼朝(みなもとのよりとも)ですよね。 

教科書の写真を見て「あらイケメンw」とおもった女子は少なくないはず。なんかすごいってことは知っているけど、実際は何をした人かというと…

1192つくろう!鎌倉幕府を築いた男

「鶴岡八幡宮」の画像検索結果

源頼朝は「良い国つくろう」(って覚えましたね)の 鎌倉幕府最初のボスです。 

(後に1185年だったと教科書が帰られてしまいました)朝廷(天皇)から征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府を開き、それまでのセレブな貴族中心ではなく、 武士中心の武家政治を始めた、まさにthe king of Bushi。 

そしてその後600年以上も続く息の長い幕府体制を作り上げたまさに偉人。

平安時代の武士たちは貴族たちの兵隊としてその地位を確立していましたが、政治にかかわることはおろか、 貴族から対等に扱ってもらえていませんでした。 

言われるがままに戦場に行っては命がけで戦う日々、力はあるのになぜか下っ端のまま…そんなことに不満を抱く武士たちはたくさんいました。

武士として育った頼朝はそんな武士たちを 「武士中心の世の中にしようではないか!」と鼓舞してともに戦い、勝利したんです。 

源頼朝から学ぶハッタリ力

Man Shaking Hands With Woman

頼朝は源家の御曹司として生まれた恵まれた子どもでしたが、お父さんが平家に負けた後は伊豆に流罪になり、一緒に戦う兵も40人ほどに落ちぶれてしまいました。

すこしでも動けばすぐに平家が命を狙いにくるいわば指名手配犯のような扱いを受けていました。

 そんな頼朝はどうやって平家を倒すほどの兵をあつめることができたんでしょうか? 

仲間がほとんどいなかった頼朝は関東朝廷のある京都へ向かう道中、 ”ある方法で”どんどんと仲間を増やしたんです。 

頼朝は平家に不満を抱いている豪族たちに手紙を送り、声高らかに「この戦いに勝てば”関東の土地はすべて頼朝に任せる”と天皇に近い人から言われている」 という 令旨(命令書)を見せつけたんです。 

当時平家に土地の権利を脅かされていた各地の豪族たちは「それならば!」と一気に戦いに協力しました。 ・・・でもこれは頼朝の嘘。 

リスクが大きい戦で味方してくれる人たちがいないことを知っていた頼朝の 苦し紛れの戦略がハッタリだったということです。 

でもその嘘がたくさんの人たちを動かし、最初は40人だった見方もみるみるうちに20万人に膨れ上がり、 最終的には壇ノ浦の戦い(山口県)で平家を倒すことに成功するんです。 

使える!処世術
権力者のお墨付きとあらば周りの人たちの見方が一気に変わるんですね。
嘘はリスクが大きいですが、いざという時は「取締役もこの案ほめてくださいました」というハッタリをかまして仲間を集めましょう。

いかがでしたでしょうか?

過去の偉人から学べることはまだまだたくさん!

源頼朝からもっと学ぼう

源氏はいかにして平家を打倒し、武士政権を樹立していったのか。その解明の鍵は、「源源合戦」にあった。また、義経は「戦術」の天才でありながらも頼朝の「戦略」を理解することができなかった。
日本が八百年にわたって錯覚してきた「平家物語」、そして「義経伝説」の虚妄を抉る。

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聖徳太子から学ぶ組織力

「聖徳太子」の画像検索結果
今日はこの人から学びます

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聖徳太子がスゴイ3つの理由

聖徳太子の名前を知らない日本人はいないはず。

その顔はよく知ってる、、けど実際なにを成し遂げてこんなに有名になったんでしょうか?

1.日本に仏教を広めた

Brown Buddha Figurine

今でこそ日本にはたくさんのお寺があって、仏教が日本の中で普及している時代ですが、実は聖徳太子の時代(600年頃)の日本では仏教はインド・中国・韓国から伝わってきた”外国の宗教”として嫌煙されてたんです。

日本はもともと神道の国だった

Pagoda in Gray Scale Shot

日本には「神道」という古くから伝わる宗教がありました。太陽や自然を神様とする宗教です。(神社は神道の象徴ですね)

仏教は日本にとって新しい宗教だった

Brass Buddha Figurine on Black Surface

文明が発展している外国(中国や韓国)はみんな仏教を信仰していたので、そんな先進国のトレンドに乗っかろうとする有力者曽我(そが)氏と、古くからの神道を守ろうとする有力者物部(もののべ)氏が代々バトルしたことも有名ですね。彼らは宗教が理由でずっと仲が悪かったんです。

聖徳太子はそんな曽我氏のそばで熱く仏教を信仰し、のちに「憲法」で仏教を国のオフィシャル宗教として仏教を採用することになります。

2.遣隋使を送った

Brown Sailing Boat on the Sea during Sunset

先進国にいち早く追いつこうと、聖徳太子は隋(中国)に使いをおくりました。「遣隋使」として外国の政治や文化を学ぶために小野妹子を中国へ派遣させたことは有名ですね。こういった海外留学制度が日本の文化や政治を発展させたことは言うまでもありません。

当時聖徳太子が小野妹子に持たせた中国の王に対する「手紙」のインパクトが強いことからその一節はいまでも有名です。

日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。
『日本書紀』

当時の隋はアジアの中で一番パワフルな強国で、そこに日本のような小国が手紙を送ったわけですが、その内容がまずかったことから隋を怒らせてしまったのです。「太陽が昇る国日本から、太陽が沈む国隋へ手紙を送ります」とかなり失礼な内容だったからです。

ただこの挑発が功を奏して、中国は日本と対等に接するようになったんです。

3.一流の制度を作った

Black and White Mountain over Yellow White and Blue Sky

摂政になり天皇から政治を任された聖徳太子は外国のように日本を一流の国にしようとたくさんの改革を行いました。

当時の日本はアジアの大国中国(当時の隋)から「野蛮な国」と言われてバカにされていました。法もなければ役人の身分制度も整っていなかったからです。

十七条憲法を作った

「十七条憲法」の画像検索結果

聖徳太子の仕事で一番有名なのが「十七条憲法」ですね。不思議なことに今読んでもグッとくる内容です。

冠位十二階を作った

また、聖徳太子はそれまで血筋や財産で決められていた役人の位を取り払い、能力だけで評価される「冠位十二階」も制定しました。

今回はそんな聖徳太子の数々の偉業を成功させた、彼の処世術をご紹介します。

聖徳太子から学ぶ包容力

Selective Focus Photography of Man Sitting Near Desk

聖徳太子は外国の文化や政治に興味をもち、当時日本より文化が発展していたインドや、中国、朝鮮の異文化を素直に受け入れました。仏教という異国の宗教を熱く信仰し、民に広めることができたのも彼の底知れない包容力があったからです。

使える!処世術

どれだけ自分の人生が安定していても、常に現状に満足せずに、新しい考え方やアイデアを受け入れてみよう。
一流の企業や組織のやり方を学び、真似てみよう。

聖徳太子から学ぶ組織力

Three Women and Two Men Watching on Laptop Computer on Table

聖徳太子はまだ日本になかった憲法や階級制をつくり、人としての行動指針や、能力に応じた評価制度をもうけました。

使える!処世術

たくさんの人を引っ張っていくには、心をひとつにするための「ルール」をつくりましょう。

また、育ちや学歴などではなく能力がある人をそばに置きましょう。

聖徳太子から学ぶ度胸

50 U.s. Dollar Banknote

当時の大国隋(中国)にバカにされないように、平等に外交できるよう強気にでた手紙が功を奏しました。

聖徳太子には、相手のパワーに臆することなく、堂々と接する度胸がありました。

使える!処世術

例え相手が幹部でも、大企業でも弱腰にならず堂々としていましょう。
むやみに媚びるのではなく、堂々とした態度をとることで相手も対等にみてくれます。

いかがでしたでしょうか?過去の偉人から学べることはまだまだたくさん!

卑弥呼から学ぶパフォーマンス力

今日はこの人から学びます

偉人と崇められる人は私達と何が違うんでしょうか?
深堀りしてみると学べることはたくさん。
このブログではそんな 偉人たちから学ぶ処世術をご紹介します。  

日本史といえばまずはこの人!

卑弥呼ね、いっちばん最初の人だ!

卑弥呼がスゴイ3つの理由

歴史の教科書にでてくるイラストはいまだに覚えているってひとも多いと思います。それだけ卑弥呼ってなんだかインパクトありましたよね。

 そもそもどうしてこんなにも有名なんでしょうか。  ちょっとおさらいしてみましょう。

1.日本の歴史上確認できる最初の登場人物

「魏志倭人伝」の画像検索結果

 最初の日本人の存在は、おとなり中国の歴史書『三国志』の一部「魏志倭人伝」で初めて明らかになりました。

もしそこに卑弥呼のことがかかれていなければ、その当時日本人が存在したことすら危うかったかもしれません。

 そうとう貴重な存在ということはわかりますよね。 

だからこそ歴史家たちはこの初登場した謎の女「卑弥呼」に執着するんですね。

2.魏(中国)から初めて国王として認められた

関連画像

当時の魏・呉・蜀など中国にある国々はアジア諸国で世界的に最先端な国として、かなりのパワーを持っていました。

そんな大国から、おそれおおくも奴国(日本)の 国王としての称号(例の金印です)をもらうことに成功したのも卑弥呼です。 

3.争いや飢餓で混乱する国を治めた女王

「卑弥呼 邪馬台国」の画像検索結果

卑弥呼の時代はまだ日本という一つの国はなく、今でいう都道府県みたいな組織がそれぞれ独立してしのぎを削っていました。

 そんな組織同士が領土や権力をめぐって毎日のようにバトルしていた混乱の時代。 

しかも当時は雨が全然降らない時期が平気で何か月も続いたりで、自然からとれるすべての食糧が尽きてしまい、 人々が飢えに苦しんでいる時期でもありました。 

毎日戦争なのに食べ物ないとかもう地獄…

 そんな地獄の時代に国を治めたのが卑弥呼でした。 

 今回はそんな卑弥呼の偉業を成功させた、彼女の処世術をご紹介します。 

卑弥呼から学ぶ自己プロデュース力

Woman Wearing Pink Collared Half-sleeved Top

歴史をたどると、 卑弥呼は自己プロデュース力がとても高かったといえます。 

卑弥呼は邪馬台国の王になる前から 「自然を操ることができる人」として成功しました。 

卑弥呼は神との意思疎通ができる「シャーマン」として雨を降らせる不思議な能力があると信じられ崇められていました。

卑弥呼が本当に能力があったかはわかりませんが、雨が降るまでただただ祈り続けたと言われています。

3日たっても7日たっても10日たってもまだ祈り続ける…30日目でようやく雨が降ったらそれはもう「卑弥呼様のおかげじゃー!」になってしまうわけです。[/su_highlight]

使える!処世術
ものはいいよう!「私のおかげ」と思わせよう!
要はなんでも自分がいたから成功したと周りに思わせることが大切ということです。
このプロジェクトが成功したのはA社をその気にさせた自分のおかげ!
部下がやる気を出し始めたのは自分のおかげ!
そう周りに思わせることであなたの評価は上がっていきます。

 王女になった後は銅鏡(大きな鏡)を使って神秘的な世界を演出しました。 

マジシャンや超能力者はテレビに出る時も不思議な服を着て、派手な音楽や照明でミステリアスな演出をしていますね。

当時はそんな技術はないですが、卑弥呼は民衆の前に姿を現す際、夜明けに大量の鏡を使って太陽を反射させ 民衆の前でミステリアスな演出をしてその威厳を保っていたといわれています。 

使える!処世術
会社の重役が高い時計や靴を身にまとっているのは単にお金があるからではなく、お金をもっていることを演出したいからです。
見せたい自分のイメージ通りに見てほしいなら、服装や身なり、言葉遣いにまで気を遣いましょう。

強い者には媚びる

Man and Women Hand Shake

卑弥呼が治めていた邪馬台国には敵対する勢力(狗奴国)がいました。

彼らはことあるごとに邪馬台国に戦いを仕掛けてくるせいで卑弥呼を悩ませていました。

そこで卑弥呼はお隣の大国である魏(今の中国)に遣いを送って、 奴隷や高価な品を貢ぎ、自分をアピールしたんです。 

魏の王にすっかり気に入られた卑弥呼はお返しに「金印」をもらい、それを使うことでライバルの組織に 「私のバックには大国がおんねんぞ」と舐められないように、周りを威嚇することに成功したんです。 

使える!処世術
組織の権力者には気に入られた方が得です。
多少汚い手をつかってでも仲良くしておくことで「あいつは社長にきにいられてるからなぁ変なことできないな」と、周りをけん制することができます。

卑弥呼から学ぶ洞察力

Person Using Map and Laptop on Wooden Surface

となりの中国では国が大きく3つに分かれていました(いわゆる三国志時代です)。

魏と呉と蜀という3大勢力に分かれ互いに勢力を拡大しながら互いを制圧しようと争いが続いていた時代だったんです。

魏が優勢と思ったら、今度は呉が優勢と戦線はめまぐるしく変化しました。

魏か呉どちらに媚びたらいいのか、卑弥呼はきっと悩んだことでしょう。

 そんな中勝利が魏に傾き始めたのを見極め卑弥呼はいち早く魏に遣いを送ったんです。 

その素早い行動は未だに英断として残っています。

使える!処世術
組織の派閥や権力争いにはアンテナを立てていた方が得です。
誰に従うべきか、次期リーダーを見極めるためにも冷静に洞察しましょう。

いかがでしたでしょうか?

過去の偉人から学べることはまだまだたくさん!

卑弥呼からもっと学ぼう

邪馬台国の女王「卑弥呼」の正体は、大きな謎です。生きていた時代や名前もわかっているのに、これほど実像が見えない人物が他にあるでしょうか。本書では、卑弥呼という人物の実像に迫るべく、9つの説を取り上げました。記紀編纂当時から言われているもの、最新の研究成果から提唱されたものなど、卑弥呼のミステリアスさを教えてくれます。

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